「いつだって戦争とセックスばかりだ」(『トロイラスとクレシダ』論考②)

「セックスだ、セックス、いつだって戦争とセックスだ、ほかのものはなにひとつはやりやしねえ。」‘’Lechery,lechery! Still wars and lechery! Nothing else holds fashion. ‘’
-『トロイラスとクレシダ』第五幕第二場

道化サーサイティーズは叫ぶ。
クレシダとギリシャ人の密会を盗み見た後激昂するトロイラスを眺めるといういわば「二重の覗き」、演劇的というよりむしろ映画的な名場面の後で。

「いつだって戦争とセックスだ」

この身も蓋もない観想は、人が初めて聞く時の衝撃とは裏腹に、そして発言した当人が考える以上に、「真実」だった。

大義なき戦争

『トロイラスとクレシダ』のドラマは、10年にも及ぶトロイア戦争の7年目から始まる。
あまりに長く続いたため、この世界では戦争はもはや日常と化している。戦争が「空気」のようなものになっていて、登場人物達は戦争というものを意識できないほど鈍感になっている。

しかし世界を支配するこの戦争の発端、「大義」とは何だろう?
何のことはない、ギリシャの寝取られ男とトロイの間男が、ひとりの「ビッチ」を奪い合っているだけなのだ。
そしてこの争いの無意味さを誰もが知りながら、止めることがどうしてもできない。

ある時トロイからの使節団が、ギリシャのスパルタ王宮を訪問する。そこでトロイの王子パリスは、スパルタ王メネレイアスの妻ヘレンと恋に落ち、トロイへと連れ去ってしまう。寝取られた上に強奪された王妃を奪い返すため、全ギリシャから募った軍隊で海を渡ってトロイに攻めこみ、都の城門の前で10年間も睨み合い、殺し合った戦い、それがトロイア戦争である。

本当に、それだけなのだ。
そしてそれを、当事者たちはよく知っている。

ギリシャ軍の陣営には、現実についてイリュージョンをもっている人間は一人もいない。ヘレンは娼婦同然の女であり、この戦争は女房を寝取られた男と蓮葉女をめぐって戦われていることを、誰もが知っている。そのことはトロイ人たちも知っている。
-ヤン・コット『シェイクスピアはわれらの同時代人』所収「『トロイラスとクレシダ』-驚異的にして現代的な人々-」(以下ヤン・コットa)80p

例えば第四幕第一場。
人質交換でクレシダを引き取りにきたギリシャの使節ダイアミディーズと折衝役のパリスが、他の使節や側の者が退いた一瞬二人きりになるシーンがある。ここでパリスはダイアミディーズに、自分とメネレイアスのどちらがヘレンにふさわしいか尋ねる。
「どっちもどっちです。」
それが彼の答えだった。
ダイアミディーズは皮肉な調子で続ける。

「あの男は気弱な間抜け亭主よろしく
気の抜けた酒の澱をすすりたがる、
あなたは色事師よろしく淫売女に
ご自分の子供を生ませたがっておいでだ。」

「あの女の不貞の血一滴ずつのために
ギリシア人が一人ずつ死んでいるのです。あの女の
腐れ肉一オンスずつのためにトロイ人が一人ずつ
殺されているのです。(…)」
-『トロイラスとクレシダ』第四幕第一場

しかしヘレンに、ギリシャ兵やトロイ兵が戦いで血を流す価値があるだろうか?

ない、とダイアミディーズは断言する。
パリスは苦笑しながら、「買いたい品物をこっぴどくけな」す取引上手だと彼をほめてはぐらかす。パリス自身も、ヘレンにその「値打ち」がないことを知っていながら。

(この会話の中で「女」「愛」が「商品」として「取引」可能なものと見なされていることは重要で、またこのやり取りでクールな皮肉屋を気取っていたダイアミディーズが後にクレシダと関係を持つことになるのは見事なドラマティック・アイロニーだが、ここでは論旨から外れるので別の機会に取り上げる)

「無意味な戦争」への意味付け

「意味」の曖昧な戦争に満たされた世界に生きる彼らは、一方でこの戦争に意味付けをしようとする。

もしも戦争がただの殺人行為にすぎないのなら、戦争が行われているこの世界は不条理だということになる。だが戦争は続いている。とすればこの戦争に意味付けをしなければ、この世界の意味と価値の体系がなくなってしまう。
-『ヤン・コットa』 81p

第二幕第二場のトロイ王プライアムの御前会議で、ヘレンをギリシャ側に返して講和する案が出た時、王子達は反対する。

いろいろな「理屈」を付ける。
ギリシャ方に以前拉致された王族の女との交換になること。
当時のトロイの首脳陣の許可の上での行為だったこと。
(ヘレンが犠牲に値しないという意見に対し)「なんだって値打ちはこっちがつける」という主観的価値。

しかしヘレンを明け渡しての講和が出来ない「理由」は別にある。
そうすることで、この戦争が「無意味」だったと認めることが出来ないのだ。

ヘレンを手放すということは、彼女は犠牲を払うに値しないと認めることと同義であり、「値打ちのない」女のために失われた命も「値打ちがない」「無意味な」ものになってしまう。

ヘクター(プライアムの息子達の長男、「皇太子」)には、トロイの現実の滅亡と道徳的滅亡とのどちらかを選ぶほかないことがわかっている。ヘレンを返すわけにはゆかないのだ。
-『ヤン・コットa』82p

不条理でグロテスクな道化芝居

一方で彼らは、「英雄」であることをやめ、「道化」になりもする。

道徳秩序が壊れ、価値体系が無くなった世界で、神話の英雄達は「キャラ崩壊」する。アキリーズは戦場には行かず、親友であり男妾のパトロクラスと一緒にテントの中でのたうちまわる。彼らはそこで将軍達の物真似をして遊ぶ。「道化」がまさにするように。

ネクターやユリシーズなど知恵の働く者達も、アキリーズや、彼といつも張り合っているもう一人の道化、エージャックスの二人をおだてて使わなければまともに戦えない「愚か者」である。

「本物の」道化サーサイティーズだけが、道化ではない。彼だけが、あらゆる幻想も妄想も捨てて、この世界を「グロテスク劇」と見ている。

「セックスだ、セックス、いつだって戦争とセックスだ、ほかのものはなにひとつはやりやしねえ。」‘’Lechery,lechery! Still wars and lechery! Nothing else holds fashion. ‘’
-『トロイラスとクレシダ』第五幕第二場
普通の悲劇では、主人公は死ぬが、道徳の秩序はゆるがずに終わる。主人公の死は絶対的な存在を認識する役割を果たすのである。ところがこの驚くべき劇では、トロイラスは死にもしなければ、不実なクレシダを殺しもしない。カタルシスは起こらない。
-『ヤン・コットa』87p

道徳秩序も絶対的存在もないこのグロテスク劇で、もう一人、大事な「道化」役がいた。
それは、クレシダである。

次回はクレシダに焦点を当てて、書いてみようと思います。

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