私たちが学校に望むものは、たった一つしかないのに
そうこうしている最中ちょうど娘が通っていた自主保育の運動会があり、同窓会がてら遊びに行くことにした。
そこに入る前、夫が「園舎もないなんて考えられない」と反対していたこともあって、ミルコが二歳の時も運動会を見学に行ったのだった。
いわゆる普通の幼稚園の中でもいいかも?と思っていた園があり、そこも見に行って、比べてみようと考えたのだ。
その幼稚園の運動会は先生が笛を吹いて、子どもたちはそれに合わせて入場し、行進して踊って…、といういまだに昭和みたいな感じで
「うーん、ちょっとなあ。でもこんなもんなのかな~?」
と思って帰ってきたのだが、次に行った自主保育の運動会は全く違うものだった。
昭和生まれの私の、運動会の概念が、軽く吹っ飛ばされてしまうものだったのだ。
競技の前に次のクラスが呼ばれ、みんなその辺からわらわらと出てくる。整列も行進も「前へーならえ!」もなし。しかも全員裸足。
おお、ハイジの群れか!
ちょっと大きめの公園グラウンドだと思っていたが、ここはアルムの山であったか!
そして始まったのは揃ってお遊戯や競争でなく、ひとりひとり、これまで練習してきたことをみんなの前で披露するというものだった。
タイヤ引いたり、自分で編んだ縄跳びでトラックを一周したり、戸板をよじ登って飛び降りたり。戸板は支柱にねじで固定してあって、本人の希望に沿って高さを調節していた。
走っていって戸板に飛びつく。登りはするものの怖くてなかなか飛び降りられない子もいる。何とか飛び降りて、ゴールのあとは晴れ晴れとした表情だ。
その子がやっているあいだ先生たちが、縄跳びを編んだ時のエピソードや、その練習中に苦労していたことなどをマイクで話してくれる。
だから戸板の高さはまちまちだけど、登る高さを他の子と比べることよりも、その子自身の成長にフォーカスできる仕掛けになっていた。
それはその子の親だけでなく、周りの親たち、他学年の親たちの心も動かしているように見えた。
もちろん見学に行った私のハートも、ガッチリつかまれっぱなしだ。ハイジたち一人ひとりの成長に、オンジでも何でもない私ですらちょっと泣きそうになる。
年を取ると涙もろくていかんのう~。
最後に背の小さい男の子の番になった。
戸板は160センチと一番高くしてある。ジャンプは高いのだが、いかんせん戸板の上に手が届かない。もう一度助走からやり直しだ。
賑やかだった会場が少しずつ静かになる。
もう一度飛ぶ! 届かない。みんなが固唾を呑んで、その子を見守っている。
他人の子でも関係ない。会場から「頑張れ!」の声が飛ぶ。
ふらふら遊んでいた小さい弟妹も、振り返ったままの姿勢でその様子をじっと見つめている。
幾度目かの挑戦で戸板に手が引っかかった!
片手だけでぐいっと全身を持ち上げた瞬間、全体から歓声が沸き起こる。足は地面になんて届かない。両手で自分の体を引き上げ、戸板によじ登り、マットにジャンプ!
再びの歓声とグラウンド中の拍手・拍手・拍手。
おたんこナス号泣。知らん子だけど。
そうやって一人ひとりの子どもが、周りの大人みんなに応援され見守られ、最後には誇らしげな顔をみせる様子に、園舎が無いとか運営が大変だとか、そういう不安は消し飛んだ。
そして私たちはその自主保育を選んだのだった。
子どものそばに立つ人は、子どもに命令したり評価したり、まして悪い子だとかダメな子だとか、その子自身を否定することなく、選別することなくありのままを受け入れてほしい。
その子の伸びていこうとする力を信じてやってほしい。
私が学校や幼稚園や、子どもを相手にしたプロの方に望むのはただそれだけだ。
久しぶりに行った運動会は、そんなことを思い出させてくれた。
そして私たち家族は、学校をやめることにした。
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