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しつけとか教育とか盆栽とか(こう見えて子育ての話)

 唐突ですが、盆栽ってご存知ですよね。あのカツオが壊して波平さんに怒られるやつ。
 私、最近知ったんだけど、あれって盆栽主(そんな言葉があるかどうか知らないけどこの場合波平ね)が「こうしよう」って思い描いた枝ぶりにするために、針金とかでぐるぐる巻きにして育てたりするんですってね。
 それを聞いた瞬間、「ちょっと怖いかも…」と思ってしまったのでした。

 盆栽したい人の思う形に縛り上げられ、しかも針金…。うう痛そう。
 盆栽の松とかに産まれなくてよかった。される側だったら絶対イヤである。

 でも今の日本って、子どもに対して盆栽を針金で縛るようなことが、『教育』だとされてるところがあるんじゃないかなぁとも考えたのです。
 良かれと思って、
「遊んでばっかりいたら、ちゃんとした大人になれない」
「嫌なことも我慢できないといけない」
「好きなことばっかりしてたら、ロクな人間に育たない」
って、締めあげることが『しつけ』とか『教育』だと思われてるんじゃないかなあ。

 子どものためを思うが故なんだけど、やっぱりされる方は嫌だから抵抗する。そうすると軋轢が生まれてしまう。
 それでお互いが苦労したり、仲が悪くなったりするのは、当節風に言ってコスパが悪い子育てになってしまうんじゃないだろうか。
 ましてそのことでどちらかが傷ついたりつぶれちゃったりしたら、それはとっても不幸で悲しいことだ。

 「んじゃあどんなのが本当の教育なんだ!」とか詰め寄られても困るわけですが、教育となると社会全体の問題になるので、その辺はまたいつかおいおいということで。決して逃げているわけではありません。ええ決して。

 で当noteではまずできることとして、口幅ったいですが、「子どもの上へ上へと伸びようとする力を心の底から信じる」ことを一案としてお勧めします。

 たとえそうは見えなくても、その子はその子なりに成長したいと願っていることを、絶対に信じること。
 それがいつか表れてくるのを信じて待つこと。
 親の思い描いた枝ぶりにはなんないかもしんないけど、その子が伸びたいように伸びたほうが、もっといい枝になるかもしんないよ? まあ結果は親が生きてるうちに出るとは限らんが。

 そんな考えは一見、いい加減で無法で無責任に聞こえるかもしれないけれど、実はけっこう覚悟のいる考え方だろう。
 でも逆に言えば、その覚悟さえあれば、他はそれほど大事じゃないとも言える。それほどこの考えは核心的なのだ。さすが私、イイコト言う。紫でツヤツヤに光るNO.1おたんこナスの異名は伊達じゃない。

 自分のことを絶対的に信じてくれる人が傍にいれば子どもは(いや誰だって)幸せだし、その幸せはまた大人に還ってくる。もっと子育てが、ラクで楽しいものになる。
 始めのうちは、そりゃあもうヤキモキすること請け合いだ。しかし子ども時代に失敗しなくていつするのか。まあ私は今でも失敗だらけだが、ま、それはそれで失敗したっていいのである。

 先回りして教えてあげたりやってあげたりしたって、本人が自分の力で出来なきゃ、いつまで経っても自分の人生を自分で生きていけない人になるだけである。

 今の日本ではどうしても目が届きすぎちゃうけど、時にはあえて見ないフリで。
 必要なら頼ってくるだろうし、頼りたいとも思っていない時から手を出してウザがられるより、困ったときに頼られる大人でいられるよう、自分を磨いておこう。
 そのためになら趣味の盆栽を始めるのもいいかもしれない。

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