アイデンティティについて考える

こんにちは、あめです。

「自分は何者なのか」という問いと共に大人になった。きっとこれからも、この根源的な問いを抱えながら人生を送っていくのだろう、とは漠然とだが予想できる。アイデンティティは簡単に一元化できるものではない。ミルフィーユのように幾重にも重なっている。色々なたとえがあるが、ミルフィーユのたとえが私には一番しっくりくる。
おまけに、流動的だ。ライフステージと共に変遷する可能性も大いに秘めている。だからこそ、はっきりと言語化するのは難しい場合もある。それと同時に、その人物の背景を深く知るきっかけにもなり、面白いのだ。この前提を基に、自分の背景を少し深ぼってみることとする。

私は日本人と中国人の『ハーフ』として生まれた。生まれたのは中国(母の地元)で、育ったのは日本の地方都市だ。教育も、大学院以前はずっと日本で受けてきた。帰属意識は、文化的にも国家的にも日本にある。中国語は話せない。大学生になり、少しずつ勉強を始めた。現在も初級者レベルである。中国の滞在歴も、全てひっくるめたとしても1年未満だ。

言語的にも、文化に対する理解という面においても、中国人としてのアイデンティティを持っているとは言えない私は、自分のことを、ずっと『日本人』だと名乗ってきた。今もそうだ。
しかし、私にはいくつか、はっきりと『日本人だ』と言い切れない部分がある。
例えば私の名前。同じ名前の人に遭遇したことが今まで一度もないような、非常に珍しい名前なので、今まで耳にタコができるほど『名付け親はだれ?」だとか『どういう由来なの?』と尋ねられてきた。そのたびに、自分のルーツを説明してきた。『親が中国人で、生まれてすぐ、中国で占い師の人に漢字をつけてもらいました。漢字は日中、どちらでも使われている組み合わせになっています』と。

それから、母の話す言葉、20代前半で来日した母は、日本語をかなり流ちょうに話す。手紙をしょっちゅう書いて寄越してくれるのだが、贔屓見に見ても書き言葉も堪能だと思う。おかげで、家庭内言語はすべて日本語で統一されていた。今考えれば、とんでもない偉業である。
しかし、やはりネイティブではないので、発音や言い間違いなどは時々残っている。今でこそなんでもないが、小さい頃は母の言い間違いがとても嫌で、「お願いだからほかのお母さんとあまり話さないで」とお願いしていたくらいだった。とんでもない親不孝者である。

当時、特に保育園~小学生までは、人と違うことを極端に恐れていた。自分の複数ルーツが周りに知られてしまえば、はみ出し者になるのではないかと思っていたのだ。どこで内面化されたのかは定かではないが、アイデンティティは一つだけであるべき、という強迫概念に近い感情が当時の私を支配していた。そんな私にとって、母のアクセントが自分がみんなと同じ「日本人」ではないという事実を突き付けられているようで、苦しかった。複数のアイデンティティを重要視する姿勢を、当時の私は持てなかったのである。

アイデンティティを深く見つめなおし始めたのは、結局大学入学後だった。いったんキャンパスに入れば、複数のルーツを持ち、どちらの文化も大切にしている同年代の人がたくさんいた。両言語話せる『ハーフ』の人たちを見て劣等感に駆られたりした過去もあるが(このことについてはまた別の記事で話したい)、余曲折の末、2つの国にルーツを持つ自分自身に対して公的的な立場を保てている。それだけでも、高等教育を積んだ価値があると思っている。

アイデンティティは複数あってもいいし、流動的であってもいい。この学びを人生の比較的早い段階で得ることができて本当に良かった。

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