郭嘉とわたし

長い夢から醒めたのだろうか。
そのひとは、しばらく虚ろなまなざしで宙を見つめていた。

これは、私が15歳の時に書いた小説「流星」の、冒頭の一節である。
主人公は、「三国志」でもひときわ人気の高い軍師・郭嘉。
物語は、その郭嘉が、死の床に臥せっている場面からはじまる。

「三国志」で誰が好き?という質問は、歴史好きなら一晩は語り明かせる最高のトピックだろう。
小学生で三国志に出会い、中学生で正史に手を出し、およそ自分の青春のほとんどを三国志に捧げて来た私も、思い入れのある人物は数知れない。
その中でも、郭嘉は5本の指に入る存在だ。“1位”ではない。けれど私には、確かに、彼を思って過ごした時間がある。

最初に彼に興味を持ったのはいつだろうか。
おそらく中学のはじめ、吉川英治の「三国志」に触れた時だったと思う。
私は彼の死にざまに惹かれた。
病を押して戦に従軍し続け、生き急ぐように短い生涯を終えた彼の死に際に。

まるで、命の最後のひとしずくまで、曹操に捧げ尽くして死んで行ったような……
彼の死は、幼い私にそんな印象を与えた。

きっと病を自覚した時、郭嘉は療養して命を長らえるより、残された時間を最後まで主君のために使いたい、と思うようなひとだったのだろう。

そして、そんなひとだからこそ、私は彼に惹かれた。

子供の頃から、体が弱いことが私の深いコンプレックスだった。
風邪を引いて熱を出すたび、他人に比べて弱い体を幾度呪い、幾度責め立てたことだろう。
自分だけ遠足や文化祭を休まなくてはならなかった時、どんなにか惨めな思いにさいなまれたことだろう。
熱を出すと、私は畳敷きの家で一番広い部屋に寝かされた。布団に寝たまま、ただ天井の木目を眺めて過ごすだけの時間は、たまらなく辛いものだった。

それでも期末テストの日、大事な模試の日など、どうしても休めない日というものはやって来る。
そのたびに、私は体を覆う熱や倦怠感に耐えて布団から起き、歯を食いしばって机に向かわねばならなかった。やらなければ、という強い意志の力だけが、かろうじて倒れそうな体を支えていた。
それが、中学生の私にとっての「戦」だった。

その戦いに挑むたび、私は郭嘉のことを思った。
きっと病に冒された後の彼もこんな気持ちだったのではないか。
しんどい体に鞭を打ってでも、戦に赴き、自分が今持てる力の全てを振り絞ろうとしていたのではないか。
少女の私は、心の中でそう想像した。
そしてその想像は、辛い時、私の心の支えとなった。

ちくま学芸文庫の「正史 三国志」にはじめて手を出したのは、中学2年に上がったばかりの春のことだ。
ちくまの「正史」全8巻は中学生が大人買いするにはいささか高価だったから、私は長い時間をかけて1冊1冊を買い揃えて行った。
最初に買ったのは、蜀書。
当然郭嘉の列伝は載っていないが、次に小遣いが貯まるまで待ってはいられない。
学校の帰り、市の図書館に駆け込んで、私は興味がある人物から順番にコピーをしていった。郭嘉の列伝をコピーした夕方のことを、その時のしんとした図書館の空気まで、私は今でも鮮明に覚えている。

高校1年の夏休み、現代文で「短編小説を書いて出せ」という課題が課せられた。
私はふたつの物語を構想した。
ひとつは、郭嘉の峻烈な生を描いた、「流星」という短編。
そしてもうひとつは、「父と子」。死の床に臥せった曹操と、息子曹丕が対話する親子の物語だ。

結局私は、「父と子」のほうを書き上げて提出した。
選択としては、間違っていなかったと思う。
私はその物語に、父親と分かり合えずに生きて来た、自分の人生への思いを込めたつもりだった。
その気持ちが届いたのだろう。
現代文の先生は、「読みながら泣いてしまいました」という手書きの手紙をつけて作品を返却してくれた。
だが書きかけの郭嘉のものがたりは、一度も日の目を見ることが無いまま、私の抽斗に封印されることになった。

「流星」が完結することは、おそらくもう無い。
少女の頃の瑞々しい感性も、ひりつくような感情も、大人になった私はとうに失ってしまった。
同じ温度で、あの頃の原稿に続きを書くことは出来ないのだ。
けれど時々――ほんとうにごく稀に、だけれども、私は10年以上前、自分が書いた未完のものがたりを読み返す。

その原稿を通して、私は、郭嘉に憧れていた少女の頃の私に再会できるのだ。

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