愛されたいだけなのだ。

私は震える手で電話を取った。Cの番号を鳴らす。出ない。

彼がすぐに電話になんて出ない奴だってのはよくわかっている。メッセージ送ったって、返事が返ってこないどころか、何日も読んでさえくれないことだってある。

でも。さすがに今日は出て欲しかった。電話の向こうで大丈夫だよって言う彼の声を聞きたかった。しつこく鳴らすが、やっぱり出る気配がなく、諦める。

心臓のばくばくはまだ止まらない。誰かの声が聞きたくて、ディアナに電話をした。彼女の低い温かい声を聞いて一気に安心感がこみ上げる。少なくとも今私は、世界にひとりきりで夫と立ち向かわなくてもいいのだ。

「さっき旦那がうちまで来たの」と言うと、いつも冷静なディアナも驚いた声を出した。「何しに来たの?今、あいつどこに住んでるの?ちゃんといろいろ聞いた?」

「聞かないよ、だって丸め込まれても嫌だもん。本当はいろいろ聞きたかったけど、後で揉めたり問題になったりするのも嫌だし、離婚の弁護士を通してやりとりしてって言うつもりだったんだけど、そこまで言わずに追い返しちゃった」

「そっかー。そうだよね、あいつ口うまいもんね。あんたは大丈夫?私、悪いけどこれから出かけるところで、夜中まで帰ってこないんだよね。だけどそのあとでうちに泊まりたいんだったらそれでもいいよ、客用ベッドルームも空いてるから、怖かったら遠慮しないでうちに来てね」

彼女の言葉を聞いて背筋が伸びる。ありがたい優しい言葉だけど、そうか、客観的に見れば、私って危ない状況に置かれてるわけなのか。まあ、夫の性格から言って、私に危害を加えることもないだろうし、一応帰っていったらしいところも見てるから、待ち伏せをされているってこともないだろうし。大丈夫だと思う、と答えてはみたものの、あとで危ない目にあった時には、彼女に頼れるのだと思うと心強かった。

本当は、Cに頼りたかったのだけど。

泊めて、と言ったら、彼は泊めてくれるのだろうか。

Cからは、8時頃に電話がかかってきた。私は友達と飲んでいる途中だった。離婚ですら、友達には今やっと話せる状態になってきているので、Cと付き合っているのは、内緒にしていた。知っているのはディアナを含めたほんの数人だけ。だから、電話を取るために私は店の外に出た。思ったより夜風が寒くて、コートを着て出なかったことを後悔する。

「お前、電話したよな」「うん。メッセージ読んだ?」

「読んだ。奴、何言ってたんだ?」

「やり直したいって。冗談じゃないから、警察呼ぶから帰れって言ったら帰っていったわ」

「よかった。大丈夫だろ?怖がることなんか何もないから」

わかってる。怖がることなんて何もないってこと。痛いのが嫌いで、ずる賢いことにかけてはピカイチの夫。腕ずくで欲しいものを手にすると言うよりは、人を騙して丸め込んで手に入れるタイプなのだ。

だけど。私は夫が家に来たことで、どうしようもなく弱気になっていた。私は彼の居場所を知らないのに、彼は私の居場所を知っている。その気になれば、私に危害を加えることもできる。家のどこに鍵を置いていたか、どこに刃物を置いていたか、彼は全部知っている。もう二度と話したくないと思っていた相手が、突然目の前に現れたこと自体が不愉快で、悔しくて、恐怖だった。そんな私の気持ちを知らないCは話し続ける。

「やっぱりあいつはビザ目当てだったんだな。ビザが切れる直前になって、慌ててよりを戻しに来るなんて、考えが甘いよな。あいつがお前に近づいてきた目的はたった一つなんだから、もう二度と近づくなってきっぱり言ってやれよ」

「ねえ、今日あとで会いに行っていい?」

「いいけど。。。仕事で出かけるかもしれないから、先に電話してこいよ」

「わかった」

バーが閉まり、町から人がいなくなる夜更け過ぎ、私はCの家に向かっていた。電話はあえてしなかった。町から家に帰る時、私はどうせ彼の家の近くを通らざるを得ないのだ。むしろ、会わずに帰る方が、本当は苦痛。家の近くを通れば、彼のことを思い出してしまう。会いたい時にいつでも迎え入れてくれる人だったらよかったのに。

Cは楽器職人だ。アーティスト気質だからだろう、偏屈者で変わり者で、それを密かに誇りに思っているらしいから手に負えない。日が暮れる頃起きてきて、夜通し仕事して、朝、日が昇る頃寝るらしい。最初に電話した時全然出なかったのだって、多分まだ寝ていたからに違いない。

工房の窓を静かにノックすると、作業する手を止めて、歪んだ笑顔を見せた。ここのところ、なんだかんだと言い訳をしてしょっちゅう会いにきている。いつも夜中に。そっとドアを開けて入ると、いつものように大音量で音楽をかけながら、何か机で作業をしていた。

集中しているだろうから、作業が一段落するまで私の方から声をかけないで待っているのがいつものことだ。でも今日は、私が来た理由がわかっているから。作業机から目を上げずに、隣の低い椅子にそっと腰を下ろした私に向かって、彼は話し続けた。心配しなくていいってこと。怖がらなくていいってこと。大丈夫だってこと。私は小さいことを心配し過ぎだってこと。

わかってる。わかってるのだけど、あなたに、私を守るって言って欲しかった。心の中でつぶやく。

そんなことを言っても、理解できないだろう。守られなくたって君は大丈夫だろうって、その通り、私は誰にも守られなくても、一人で自分を守れるんだ。だけど、だけど。貴方にだから、私は守って欲しかったんだ。

Cの広い背中を見つめながら、私は何も言わずに聞いていた。お茶を淹れてくれるかと思ったけど、10分くらいで立ち上がって、仕事の都合で出かけなくてはいけないのだと言う。

私は、そっと彼の胸に頬を寄せて、ハグして、と言った。彼は片手を私の背に回したまま、まだ話している。もっとちゃんと抱いて欲しくて、もう片方の手をとった。ぎゅうと抱きしめて、おでこにキスをしてくれるC。そうじゃない。ちゃんとキスをして欲しいんだ。じれったくて悲しくなる。

本当は家まで一緒に来て欲しかった。でも、それは言えない。下を向いたまま帰れないでいる自分のことを、まるでティーンエイジの女の子のようだと思う。こんなに子供っぽい女で恥ずかしいと思う。言っても叶えてもらえないことをたくさん願っているのは、なんて悲しいことだろう。

ぎゅっと彼の手を握りしめてから自分の車に乗る私に向かって、Cはあいつが待ち伏せしてるなんてあり得ないから、大丈夫だよ、でも何かあったら警察を呼べ、と言ったあとで、いや、俺に電話しろ、と言い直した。私は小さい声で、貴方が電話してきて、と言った。理不尽なのはわかってるけど、電話もメッセージもくれない彼が、自分から私に電話してくるって言うことが、今すごく自分に必要な気がしたから。Cは、わかった、でも危ないことがあったら、お前から先に電話しろよ、運転中でも電話チェックするから、と言ってくれた。

家の前で車を一瞬止めて、一応あたりに誰もいないのを確かめる。駐車スペースは裏。一度降りて、ちょっと歩かなくてはいけない。不安だったけど、すぐに家に入れるように手に鍵を持ち、小走りに家の前まで歩いた。

家の外は凍てつくような寒さだったけど、中に入ってほっと息をついた。家の中はぬくぬくとあったかい。夫が外でなんて待てるはずない、と改めて思うと同時に、こんな真冬でも春物のジャケットを着るしかない彼を思って、胸が痛かった。もう私にできることは何もないのだけど。

Cから電話がかかってきた。自分がかけろと言ったくせに、私はそれでも驚く。自分の願いは叶わないと思い込んでいる自分に、また悲しくなる。

「大丈夫か?」「うん。今家に入ったとこ。電話ありがとう」

「よかった、無事で。念のために、鍵穴に鍵を指しておけよ。そうすれば奴が合鍵作ってたとしても外から開けられないし。危ないことがあったら電話しろよ。俺はいつものように一晩中起きてるから」

こんな言葉の一言一言を噛みしめて、飲み込んで、そこに愛があるかどうかを息を呑むように探している自分が、惨めだと思う。でも確かにそこに愛はあるのだ。私が望むようにCが表現してくれないだけで。だから私はこの言葉で体中が満たされて、Cにありがとう、とゆっくりと言う。ここに彼がいない寂しさを、体の他の場所に感じながら。

愛しているのに隣にいてくれない男。愛してもいないのに隣にいようとする男。

そして私は、愛されたい女なのだ。愛を自分にもわかるように伝えて欲しいと願っているそんな女なのだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?