考えるという勇気―華氏451度 / レイ・ブラッドベリ―

こんばんは。
青井あるこです。

レイ・ブラッドベリの「華氏451度」(伊藤典夫訳)を読みました。

以下、ネタバレを含みます。

本が禁制品となった未来で、書物を焼き尽くす「昇火士」として働く主人公ガイ・モンターグ。ある晩、風変わりな少女クラリスと出会ってから、彼の日常は変化していく。

モンターグにはミルドレッドという名の妻がいるが、どうやらうつ病のようで、無意識のうちに睡眠薬をオーバードーズしてしまうこともある。そして彼女はいつも耳にはめ込んだ巻貝(現代で言うところのイヤフォンのようなもの)を通して聴くラジオとラウンジ壁とのおしゃべりに夢中。

不安定な妻のことをモンターグが心配しているような描写はいくつかあるが、反対にミルドレッドは夫のことをほとんど顧みていない。
向かい合っているはずなのに、会話が噛み合わない、お互いの世界観が交わらないといったような夫婦生活のなかで、クラリスは久しぶりにモンターグがちゃんと話をした相手だったのだろう。

そしてクラリスはモンターグの心に旋風を起こし、幻のようにぱっと消える。
ある日、本を隠し持っていた家主が蔵書とともに自らに火を点けるという事件が起こる。モンターグはこれから燃やすはずの本を盗んだことと、人間が燃えたという事実に動揺するが、ミルドレッドは彼を慰められない。

ちぐはぐなこと言う彼女に、モンターグは二人が初めて会った時のことを覚えているか尋ねる。だけどミルドレッドもモンターグ自身も、二人がいつどこで出会ったのか覚えていないのだった。そしてミルドレッドは「どうでもいいわよ」と言い放ち、またラウンジ壁との幻想の家族ごっこにのめりこんでいく。

何故彼の孤独にこうも親近感を抱くのか、と考えてみて思い浮かぶ光景があった。電話をしながら犬の散歩をする知らない人。同じ食卓を囲みながらスマホをいじる友人、恋人、家族。同じ空間にいるのに、同じ何かを共有できない。

二人の部屋でのやりとりを読んでいると、自分が見つめる目の前の相手が、こっちを見ているのに自分を見ていないという孤独と恐怖がひしひしと伝わってくる。

「華氏451度」の世界に於ける、幸せとは一体何だろう?
娯楽として描写されるのは、ラウンジ壁と”カブト虫"と呼ばれる車での暴走、そして昇火士による家と本の焼却くらい。

モンターグの上司であるベイティーは言う。
「われわれの文明社会は巨大なものであるからこそ、少数派に不安を抱かせたり、心をかき乱したりしてはならんということだ。」

様々な少数民族、もしくは様々な嗜好や主義を持った人々が集まった社会では、もちろん様々な意見が生まれるし、一つの事象に対する反応も多岐にわたってくる。賛同をする人もいれば、拒否を示す人もいる。

大衆の心を掴むためにエンターテイメントの中身はどんどん単純化していく。誰に対しても批判的にならないように。
だから個人の思想が満ちた本は、権力によって禁じられたわけではなく、自然と人々の手から離れ、いつの間にか焚書という制度が根付いてしまった。

「本」が無くなることで人々は「考えすぎること」が無くなり、幸せに呑気に暮らせるはずだった。
だけどミルドレッドは精神を病んでいる。

モンターグらが暮らす街は、灰を被ったかのようにグレイに煙って見える。
読んでいると雨の日のように身体の怠さを覚えるようだった。

自分で考えないこと。それ自体が空しさを生んでいるのではないだろうか。

例えばテレビやインターネット上の動画を見ても、その瞬間は楽しさを感じるけれど、見終わったあと、一日が終わる前には「一体何をしていたんだろう」と時間を無駄にしてしまったような気持ちになることがある。

モンターグが暮らす街の市民たちもそうだったのではないだろうか。
その場しのぎの楽しさはあっても、将来への楽しみは無い。将来や日常への不安が本当はあったとしても、ラウンジ壁とのお喋りやカブト虫での暴走で吹き飛ばしてしまって、解決方法を見つけることもできない。
そうした小さな不安や心配が知らず知らずのうちに積もっていって、精神を病んでしまうのではないだろうか。

テレビもユーチューブも、人に与えられる楽しみにはいつか飽きてしまうと思う。

様々な媒体の中で、本は、特に小説や詩の類については、読み手に自由が与えられている。読み進めるスピードも読み手が好きなようにしていいし、同じ描写を読んでも人によって想像する景色や感情は異なる。

作者が伝えたいことはもちろんあると思うし、それを正確に読み取ることも読書の醍醐味であると思うが、作者によって綴られた文章が読み手の感性とぶつかり合って生まれる世界を楽しむ、という面もあると思う。

これは大げさな表現かもしれないが、そういう意味では本を読むとき、読者は創作の世界に足を踏み入れているのではないだろうか。

そうして本を通して得た知識や自分以外の考え方を持って、改めて自分を取り巻く物事に向き合って考えてみる。根本的な解決にはならなくとも、少しだけ見え方がそれまでと変わっていたりする。

モンターグは本を読んだことでそれまでの彼の世界が崩壊し、事件を起こして警察に追われる立場になる。

だけど物語の後半に街から逃れた彼が、彼と同じく都市部にいられなくなった男たちと共に朝食にベーコンを食べる場面がある。
そのときになってふと気づいた。物語全体を覆っていた灰のようなものは晴れ、ベーコンの表面に光る油や男たちを照らす太陽の光の色が見えるようになっていることに。

そして彼は男たちとともに、専用によって一瞬にして灰になった都市へと向かって歩き始める。何が起こったかを記録するために。そして記録したものを誰かに伝えるために。

考えることで、不幸になることは確かにあると思う。知らなければ何も心配しなくて済んだはずなのに、下手に知識があるからこそ、情報が入ってくるからこそ心配になる。

だけど自分の頭で思考し自分のことばで表現しないと、自分が無くなってしまう。他人が提供してくれたものだけで、身体や心を満たすのは、嫌だ。

今まで知らなかったことを知るということには、恐怖もある。だけどその恐怖を利用されないためにも、知識をつけて、多くの人の意見に触れて、自分の頭で考えて自分のことばで発言する。
そんな風に勇敢でいたい。

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