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2分50秒小説『僕が猫教徒(ネコリタン)になった経緯』

「生きることは抗うことにゃん」
 ブロック塀の上から、猫が話しかけてきた。朝、バスの時間は――まだ大丈夫。
「抗う?何に対してですか?」
 僕は訊ねた。猫は顔を掻きながら答える。
「生の対義を為すのものに対してにゃん」
「生の対義?つまり死ですか?」
「そうにゃん。でもキミの認識している死とはきっと違うにゃんねぇ」
「認識?つまりあれでしょう。死は無ってゆうことでしょう?」」
「にゃあ、何が無になることをキミは死と定義する?」
「え?つまりあれですよ。肉体と魂が、というか存在がですよ」
「なゃるほど、つまりキミという存在は肉体と魂で出来ているという、そういう認識にぁあご?」
「まあ、そうですね」
「なゃあ問うが、肉体と魂、どちらの死をキミはおそれる?」
「え?うーん、肉体と魂は不可分なわけで、肉体の死はイコール魂の死ですから『どちらを』と言われても」
「もっと考えるにゃ」
「むふーん、この体が死んだら僕の気持ちも想いも意志も無になるわけで……いや違うか?僕の書いたものや誰かに伝えた想いなどはひょっとしたら誰かの記憶の中で生き続けるのかも知れないぞ!じゃあ、逆に魂が先に死んだらどうなるんだ。んー、先生、肉体が生きているのに魂が死んでいるなんて、そんなことあり得るんでしょうか?」
「あるにゃん、ボクは毎日ここでそれを観察しているにゃ」
「え?」
「言うなればキミたちは、肉体という鳥籠で魂という鳥を飼っているわけにゃ」
「にゃっ!なるほど」
「ボクはこの塀の上に座って今日も沢山見たにゃん。死んだ鳥の入った鳥籠を」
「先生っ!ぼ、僕はどうですか?僕の中の鳥は、生きていますか?死んでますか?」
「動いてないから生きてるか死んでるか分からないにゃ」
「ええー!」
「心配するにゃ。猫以外の生き物は殆どそんな感じにゃん」

 猫先生、朝のまだ淡い空を背負い、僕を見下ろしている――まるで宗教画のよう――いや、これはれっきとした宗教だ。先生は先生じゃなくて教主様!もはや僕は生粋の猫教徒(ネコリタン)だ。
「教主様!どうすれば僕の魂は――鳥かごの鳥は羽ばたきますか?」
「餌を与え、陽を浴びせ、自由にさせるにゃん。何時でも飛び立てるように、入り口は開けておくにゃんよ」
「教主様、難しいです。もっと具体的に。あ、ヤベー、バスの時間が。明日もまた来ますから、続きを教えてください」
 バス停までダッシュした――が、バスの後ろ姿がもう信号の向こう。仕方なく次のバスを待ちながら遅刻の言い訳を考える。


 翌日、ブロック塀の上に先生は居なかった。レジ袋の中、行き場を失った猫缶三つ。
 僕はため息を空に吐き出し、バスに向かって歩く。猫缶持参で出社したこと突っ込まれたら、なんて言おうか……猫飼ってないのに。

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