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脚光のタナトロジー:緋田美琴G.R.A.D.を読む

逸見Althoff

緋田美琴という存在に、私たちはどこまで触れることが出来るのだろうか。緋田美琴という、アイドルであろうとし続けるひとに、どの程度の人が共感したり、理解しようとしたりするのだろうか。あるいは、緋田美琴という一人の人間が、どこまで自分の内面を開示できるのだろうか。
緋田美琴のG.R.A.D.は、彼女の抱える課題を、彼女に接する人たちが抱える課題を、再び分かりやすい形で提示していたように感じる。例えば、完璧なパフォーマンスへの執着や生と死の問題。これから述べるのは、それらの問題とその周辺、そして彼女の未来についての思案である。


Mors sine musis vita : 生と死の構造

SHHis のG.R.A.D. において一貫して強調されていたのは、生と死の問題である。七草にちかのG.R.A.D. では、「忘れられて 適当に思い出され」ている有名人の、「生きるために生きる」生き方を死んでいると断じる。緋田美琴のG.R.A.D. においては、プロデュースイベントのタイトル「dead」「alive」が端的にそのテーマを示している。この生と死という共通の主題を、今回は緋田美琴に注目して考えてみたい。

彼女にとって、生とはステージのある世界≒東京、死はステージのない世界≒北海道である。プロデュースイベント「dead」で実家に帰省していた美琴が「生きたい場所に行きたい」と言って東京に戻って来たことを考えれば、ステージが生であり、死はステージの欠如と理解するのは難しいことではない。実家に帰った彼女は、できることが無くてゆっくりと時間が過ぎていくことへの恐怖を感じていた。そして自分の部屋の存在しない実家を自分の居場所ではないと認識し、急に帰省したばかりなのに急に東京に戻っていく。あくまで彼女にとってそう見えているだけであるが、しかし北海道にポジティブな印象が付随していないことがより重要である。美琴の発言では北海道から東京という方向性で「帰る」という言葉が使用され、逆に家への強い想いを持つにちかは『モノラル・ダイアローグス』エンディング「O」において美琴の帰省を「戻るんだ」と表現している。

このように生と死にまつわる事物を整理すると、生の領域を常に死が脅かしたり、生の領域に暗い影が付きまとっていることに気付く。

美琴は何もしていない時間が過ぎていくことへの恐怖、昨日出来ていたことが出来なくなるかもしれないことへの恐怖を訴える。W.I.N.G.編でも、彼女は昨日出来ていたことが今日もできるとは限らないと言っていた。このような時間への意識の根底にあるのは、ピアノを習っていた頃の記憶であった。

一日弾かないと、三日分
腕が鈍るって

緋田美琴G.R.A.D. 編「alive」

一方で、プロデューサーは予選において、これまでの積み重ねがあると言い、練習不足を不安視する美琴を励まそうとする。実際、多くの人は多少のブランクがあろうとも、これまでの膨大な時間と努力の蓄積を信頼するのではないだろうか。つまり、彼女は「完璧なパフォーマンス」のための並外れた努力や時間と同時に、並外れた不信感を抱えている。

また、美琴の人間関係についても無視できない不安要素であろう。彼女の人間関係は、広範で希薄な関係と歪な関係の二つの軸で整理できる。

前者は業界においての人間関係である。彼女は『OO-ct.――ノー・カラット』に登場した知人男性・知人女性やダンサー、【MANNEQUIN】やG.R.A.D.で登場したデザイナーなどの業界人との人脈形成に成功している。しかし、彼らとはパフォーマンス以外の相談事をするような間柄ではないように思われる。彼らは美琴の高い実力を認めてはいるが、しかしそこで止まっている。加えて、例えば『OO-ct.――ノー・カラット』では美琴との言語レベルでの認識の相違が描かれている。このような相手と、彼女はどこまで踏み込んだ話ができるのだろうか。彼女はどこまで相手に踏み込ませるのだろうか。

『OO-ct.――ノー・カラット』第三話「Ⅳ」

更に指摘したいのは、対人関係における大きな出来事の経験が不足している(であろう)ことである。現時点で美琴が経験した人間関係の大きな変化は、斑鳩ルカとの決別しか確認できない。人間と関係を形成し、その変化を受容したりその変化に干渉したりする社会的な営みを、他者を理解しようとしたり自己を開示したりする経験を、緋田美琴は(完全にとは言わないまでも)欠いているのではないか。

後者はプロデューサーとの関係である。美琴とプロデューサーのコミュニケーションは、決して完全な形ではない。彼女の帰省がプロデューサーの提案によるものであることが今回明かされたが、そのことについて彼女は「別に、来たくなかった」と述べる。G.R.A.D. 出場についても、休んでから考えるよう促すプロデューサーと出場を前提としている美琴との間では合意が形成されていない。更に、G.R.A.D. 編においてプロデューサーが黙り込む様子、セリフ「……」が露骨に、大量に描写されていた。このようなコミュニケーションの不和がありながら、美琴はプロデューサーにある種依存するような態度を取っている。そのことは、次の引用から理解できるだろう。

……それにね、ここにはプロデューサーがいるから

私を待っていて
『おかえり』って、迎えてくれる

すっごく世話焼きなプロデューサーがいるでしょう?

緋田美琴G.R.A.D. 編「alive」

事務所を、プロデューサーの居るところを帰る場所と感じながら、しかしその居場所はディスコミュニケーションを内包している。このような歪にも見える関係は、ステージのある世界の人間関係は、果たして健全なのだろうか。


Flos unus non facit hortum : 他者の不在

前章では緋田美琴の抱く不安、そして人間関係という2点の問題を確認した。この章では、それらの問題の背後にある「完璧なパフォーマンスへの執着」=「それ以外のものへの無関心」について考えたい。

「完璧」とはどのようなことだろうか。完璧とは欠点が全くないことを示す言葉である。つまり、完全無欠であって誰かが口を挟む余地がないことである。この言葉は比喩的に用いられることがよくあるが、美琴の表現においては比喩としてではないだろう。パフォーマンスのことを一途に考え続け、そのために尋常でないほどの時間を費やしてきた人の言葉としての「完璧」は、正真正銘の完璧さを指していると考えられる。

それでは、誰が完璧かどうかを判断するのだろうか。美琴は常に向上心を持って活動しており、結果が伴っていてもなお自分の理想を体現できてはいないと言う。完璧を理想とする彼女の中に理想の姿としての「完璧」があり、その物差しは外在しない。つまり、彼女以外が完璧かどうかを判断することができないのである。

緋田美琴W.I.N.G. 編「my name」

以上の2点をまとめると、完璧なパフォーマンスは誰も口を挟めないという絶対性、完璧かどうかの判断は他者には不可能で美琴自身しかできないという絶対性を指摘することができる。要するに、緋田美琴のステージに「他人は関係ない」のである。「ファンに感謝するのは当たり前」と言いながらファンの眼差しについて自覚的であるように思えない彼女の姿勢も、二重の絶対性によって理解できるのではないだろうか。

また、このことはストーリーの解釈のみを射程に収めるものではない。SHHis にまつわるテキストには円形のモチーフが多く登場するが、その理由を説明することもできると考えている。なお、論点をここまで拡張し説得力を持たせるためには七草にちかについても考察したうえで行うべきであるが、それはまたの機会にしたい。軽く触れると、やはりディスコミュニケーションの文脈から述べることができると考えている。

『OO-ct.――ノー・カラット』やファン感謝祭編「0 0 0」など、SHHis のテキストには丸い形をした文字が使われることが多い。円形のモチーフは一本の線で作られており、他の線が重なることはない。独立した一つの線である。円形のモチーフは、外に開かれていない図形として、SHHis の現在のあり方が投影されて頻繫に用いられているのではないか。

また、この円形のモチーフというテーマについてはもう一つの説明も考えられる。緋田美琴は完璧なパフォーマンスにこだわり続け、完璧を追求してきた。しかしこれまで報われておらず、また完璧を追求し続ける。現在の視野のままではこのサイクルからの脱却は大変な困難であるように見える。このような循環的なストーリーが円形のモチーフに投影されているのではないだろうか。


Non omnia possumus omnes : 人間性の回復

前章では、緋田美琴の問題の根底としての「他者の不在」に着目した。この章では、G.R.A.D. で見られたポジティブな変化を拾い上げながら、彼女と他者との関係、そして彼女の未来について考えてみたい。

美琴の変化として特筆すべき点は2点ある。「生の思想」の獲得と、あたたかさへの接近である。

まず、「生の思想」であるが、これは理想を体現できるなら死んでもいいという殉死の思想に起こった変化である。彼女は「死んでもいいくらいのステージ」のためには、ここで生きていかなければならないと気付く。そして【MANNEQUIN】においてデザイナーに「そこにいて、ただ衣装を着て 立っていてくれるだけでいいんだもの」と言われた美琴が、写真撮影において自己表現を試みた。

(3枚共に)緋田美琴G.R.A.D. 編「close」

この変化の描かれ方は急であり、帰省の描写も分量が少なくカタルシスに欠く印象は否めないが、その変化自体は多少のプラスと見積もって良いだろう。それは、テクニックの領域を脱して自由に表現しようとし始めたことを示しているからである。これは、表現力を生かして表現するべき内容の不在を課題として抱えていた彼女が、いよいよその問題に自ら足を踏み入れた瞬間と言える。

次に、あたたかさへの接近である。美琴は東京に帰り、G.R.A.D. の最後ではプロデューサーのためにカップケーキを作ろうとした。結果は成功と言えるものではなかったが、人のために何かを作るという行為を始めたのである。これまで、『OO-ct.――ノー・カラット』でのはちみつレモンのように、人から何かをもらうという経験をしてきた彼女が、その次のステップとして自ら作る行為に挑戦した。このことは、完璧なパフォーマンスと同じくらいに人の心に残る、想いの力に気付くきっかけとしての可能性を秘めている。

以上のことを踏まえて、先に確認した緋田美琴の課題を見つめてみると、完璧なパフォーマンスを実現する以外の道に彼女の救済の機会が潜んでいるように思える。

その道は、完璧なパフォーマンスと同じくらいに当たり前などではない、ファンの声を受け止めることである。「パフォーマンスでみんなに感動を与えるようなアイドル」になりたい彼女は、その「みんな」の声に気付かなければならない。そしてそのためには、「みんな」という総体を構成する一人ひとりの心を感じなければならない。もしかすると、そのきっかけになるのが誰よりも近くで緋田美琴のことを見続けてきた七草にちかなのかもしれない。にちかという一人のひとに気付いて、そのひとを見つめて初めて、美琴がファンを正面から、実感を伴って認識できるようになるのかもしれない。

さて、ここで一度G.R.A.D. に立ち返り、ピアノのことを思い出してほしい。美琴の実家のピアノは調律されておらず、「処分してもいい」とさえ言われたピアノである。それと対照的に描かれたのは東京のレッスン室の、調律され綺麗な音を出したピアノである。調律されたピアノは日々練習を欠かさない美琴の部分、すなわち技術や現在の生活であり、調律されていないピアノは思い出されることもなく今や切り捨てられてしまった美琴の一部分、あるいはこの10年間を間違いでないと信じたいがために切り捨てなければならなかった過去なのではないだろうか。綺麗な音が出なくなったピアノは、「何もしていないのに壊れた」のではなく、「何かしたからそうなった」のではなく、「何もしていないから」そうなったのだ。

【A】において美琴は「……私は消えちゃった方がいいな 練習の跡とか、失敗した跡なんて 最初から無かったみたいに」と発言している。実家のピアノを処分してもいいと言った彼女の根底にある価値観は、一貫している。しかし、彼女が認めてやることのできない過去に気付き、その過去に声をかけて話を聞くことができる人間が彼女の隣にいる。W.I.N.G. 編において、最後には八雲なみというアイドルを人間として見つめることができた七草にちかなら。あるいは、美琴にとっての居場所を(暫定的にであっても)設けることができたプロデューサーなら、もしかすると、緋田美琴という人間が閉ざす過去に触れることができるのではないだろうか。

緋田美琴は14歳で歌手を目指して上京し、その後アイドルを志してこれまでの10年間を必死に過ごしてきた。地元を居場所ではないとして切り捨てた彼女にとって、本当に地元は帰る価値のある場所ではなかったのだろうか。幼くして上京し、その後10年を費やしてなお諦めることのできない夢のルーツは何なのか。何にもなれなかったとしても「他のどこでもない、ここで 生きていきたい」と思える理由は何なのか。緋田美琴がアイドルとして生きるために、生きたい場所で生き続けるために、彼女とその周囲は対話を通じて過去に向き合う必要がある。

緋田美琴G.R.A.D. 編「alive」


Non omnia possumus omnes : プロデューサー、そして

人が完璧であることは限りなく有り得ないだろう。そのことを今一度我々は振り返らなければならない。少なくない人数のプレイヤーが、緋田美琴G.R.A.D. のプロデューサーに違和感を覚えたり不信感を持ったりしているだろう。ここでは、(後味が悪いのを承知しつつ)プロデューサーと緋田美琴の帰省に関するディスコミュニケーションについて取り上げたい。また、G.R.A.D. 編についての評価や『モノラル・ダイアローグス』との比較も行う。

G.R.A.D. 編実装によって、『モノラル・ダイアローグス』の最後に決定した緋田美琴の帰省がプロデューサーの提案によるものであることが判明した。プロデューサーは美琴の咳について心配しながら、しかし彼女の精神的な面も視野に入れて帰省を勧めていたように思える。美琴が休養についてプロデューサーと話す場面では内面的な部分についての言及が多いことから、心理的な側面をプロデューサーが了解していなかったとは考えにくい。それならば、プロデューサーは実家に帰って何をして欲しいのか、何をすることで美琴が次の段階に進むための助けになるのかということを伝えるべきであった。美琴は帰省に対しての目的意識を持たないまま飛行機に搭乗した。だからこそ、行動を促したプロデューサーに求められたのは、彼女を心から納得させるための目的を設定し、それを彼女と共有することであったのだ。

また、今回のプロデューサーは黙り込む場面が極めて多いようにも思われる。SHHis のシナリオは一貫してSHHis の2人を不完全な存在として描くが、それと同じようにプロデューサーも一人の不完全な人間なのである。そのことが、不完全な2人を支えようとするうえで露わになっている。

現時点での帰省の描写は、「練習以外のものが、あった時間」(『モノラル・ダイアローグス』エンディング「O」)の表現としては違和感を覚えるほどに淡泊である。今後この部分の掘り下げがあることに期待したいが、現段階ではプロデューサーが考えなしに帰省を促しているように見えてしまう。その結果として、美琴は消極的な態度で実家に一度戻り、そしてそこが居場所でないと感じることになってしまった。このような展開の粗さ、またこれまでのクリフハンガー的な物語進行の丁寧さと情緒を欠く構成については、今後のフックになるのかどうか注視していきたい。

なお、「練習以外のものが、あった時間」という表現はにちかの視点での言葉であり、緋田美琴にとって北海道での時間がどのようなものであるかという問題と明確に区別する必然があったのかもしれない。にちかの視点と美琴の視点を厳密に区別しない読み方をしたからこそ帰省の描写に我々が納得できないのかもしれない。

また、帰省についてはもう一つ議論の余地を残している部分がある。それは、『モノラル・ダイアローグス』との整合性である。『モノラル・ダイアローグス』エンディング「O」には、やや穏やかな表情で、何かを始めるというなら時間が欲しいと緋田美琴が言うシーンがある。この時の背景は空港であり、足音や何かを引きずる音がすることから、飛行機に搭乗する直前のシーンだと考えられる。一方で、G.R.A.D. では帰省に消極的な姿勢を示す美琴の姿が確認できる。彼女の感情が正反対のように思われるが、これはどのように理解すべきか、私のなかで答えはまだ出ていない。「何かを始める」というなら時間が必要であるという認識が、ステージでパフォーマンスを行うためには綿密な準備=練習の時間が必要であるという体験と結びついていると考えるとヒントが見えてくるのかもしれないが、いずれにせよこの要素について、次のシナリオで回収されることを待たなければならない。

『モノラル・ダイアローグス』エンディング「O」

この章では否定的な見解を多少述べたが、しかしこのG.R.A.D. 実装によって緋田美琴像に変化が加わったことは、比較的ポジティブに受け取っている。今回はこれまでよりはるかに、緋田美琴がまるで怯えている小さな命であるかのような印象を与えるシナリオとなっていたが、そのことが彼女を神的なもの、遠い存在であると見る眼差しを打ち壊し、人間性を取り戻す見方を導入することになるかもしれないと私は考えている。この論点については、私の以下の記事より「人間性の回復の物語」の項を参照願いたい。


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