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権力装置と欲望のアレンジメント


学校のような権力装置が、人々の欲望のアレンジメントによって機能することを明らかにしたのはドゥルーズです。

今回は、そのドゥルーズの哲学をとてもわかりやすく解説した國分功一郎の『ドゥルーズの哲学原理』(岩波現代全書)をもとに文章を書きたいと思っています。

そもそもここでいう権力とは、ある一定の目的を持って、一定の戦略を練り、人間の行為に働きかけることによって、望ましい行動を起こさせる力のことです。

権力装置は、望ましいとされるある一定の行動を対象者の身体に再現することを目的とし、稼働します。

例えば、学校がそうです。

学校はまさに、望ましいとされている行動を身につけさせるための施設です。

(ちなみに、“権力”という言葉にはネガティブな印象がありますが、ここでは特にそのような意味はなく、否定も肯定もしていません。そもそも、一切の権力を否定するならばアナーキストにならなければいけません)

他にも病院、工場、軍隊なども、近代以降生まれた権力装置だと考えられています。

“権力”というと、王様や軍隊のような巨悪がいて、一方的に大衆が抑圧されているイメージがあり、確かにそういう時代もありました。

しかし、近代以降においては支配者ー被支配者という構図は成り立たず、権力は上からくるものではなくて、下からも、つまり大衆の中からも生じるのだという発見をしたのが、ミシェル・フーコーでした。

フーコーは『監獄の誕生』という本の中で、監視されることによって互いに互いを縛り合う、明確な支配者がいない権力のあり方を主張します(規律訓練型権力)。

学校で例えると、怖い先生(権力者)がいるわけではなく、さらに特に言われたわけでもないのに、子どもたちがお互いに「〇〇しなきゃいけないよ」と注意し合っている状態です。

こうした「どこからでも生じる権力」もあることを膨大な資料と精緻な分析によって明らかにしたのが、フーコーでした。

そんなフーコーの仕事を引き継ぎ、さらに深く権力を分析したのが前述したドゥルーズです。

ドゥルーズは、権力装置が機能するために、人々の欲望のアレンジメント(配置)がなければならないと主張しました。

用語ばかりで恐縮ですが、欲望のアレンジメントとは、ざっくりと「人々の欲望のあり方」ぐらいで個人的に認識しています。

(ドゥルーズは、人々の欲望は自然に決まるものではなく、自分で決めるものでもなく、さまざまな影響の中で結果として生じるものだと主張したく、アレンジメントという語を使いました)

さて、権力装置が機能するためには欲望のアレンジメントがなければならない、とはどういうことでしょうか。

例えば、今はもうなくなりましたが、昔は学校の廊下に成績が貼り出されていました(アニメとかで見ました)。

学校(権力装置)側は、生徒たちに勉強をしてほしいという狙いをもっています。

そこで、自分の成績が張り出されることで、(うわ〜、はずかしい〜)と感じ、より勉強をしてくれることを狙いとしてこの戦略を行うわけです。

みんなが勉強してくれれば、学校の狙いは達成されるわけです。

実際にこの方法が広く行われていたのは、有効だと考えられていたからです。

しかし、この戦略がうまく行くためには、あるものが必要です。

それは何か、上述の本の引用です。

「ところで、そうした学習成果の可視化が生徒たちを動かすのは、生徒たちの中にそもそも「自分だけ取り残されたくない」という欲望があることが前程になっている。そうした欲望のアレンジメントが広く社会に行き渡っている時にのみ、この権力装置は作動する。」(國分功一郎『ドゥルーズの哲学原理』)

「自分だけ取り残されたくない」という欲望のアレンジメントが生徒たちの中にある時にのみ、この方法は機能すると國分は言います。

もしそういった欲望を生徒が持たなければ、どうなるでしょうか。

張り出された順位表を見たところで「ふーん、それで?」という感じになってしまうでしょう。

こうなると、権力装置である学校側の狙いは達成されません。

したがって、権力装置が機能するためには、人々の中に特定の欲望のアレンジメントがなければならないのです。

給食の残滓を減らすために、その量を数値化して発表する学校側の戦略が機能するためには、子どもたちの中に「食べ物を残すなんて恥ずかしいことだ!(だからこの状況を改善しなくてはならない)」という欲望のアレンジメントがなければなりません。

権力装置が機能するためには人々の欲望のアレンジメントがなければならない関係を、ある種の「共犯関係」なのだと國分は言います。

権力装置があるだけではなく、人々の欲望だけがあるわけではありません。

それらが両輪となり、権力を動かしていくことを明らかにしたのが、ドゥルーズの天才なのだと、國分は述べます。

そして、次のように続けます。

「だから、欲望のアレンジメントがひとたび変化してしまえば、この権力装置は全く作動できない。」

この数十年で社会は異常なスピードで持って変化しました。

当然、さまざまな影響の中で決定される人々の欲望のアレンジメントもまた、変化したことでしょう。

しかし、学校という権力装置の戦略は、子どもたちの欲望のアレンジメントの変化ほどは、変化していないのではないでしょうか。

「学校のやり方が時代と合っていない」というよく聞く主張は、まさに権力装置の戦略と人々の欲望のアレンジメントのミスマッチのことだと考えられます。

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