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パソコンの本質についてと自分の不甲斐なさ。

自分のかいたnoteは、なんかこう、いろいろ見え見えで無性に恥ずかしくなってしまう

消すのも残すのもそれなりに格好がつく理由があるけど、その格好がつくってのもそれはそれはダサくて、やすっちい。
どっちの行動をとってもそれなりの格好は担保されるし、おまけにそれなりのダサさも着いてくる。
こんなことを考えると今まで自分がとった行動全てそんなもんだから、このまま思考を進めたら息もできなくなるんじゃないか

消しても残してもどっちにしてもダサい。

陳腐な謳い文句でまとめられた日本を称賛するテレビ番組にうんざりして絶望してる。

自分の情けなさとか嫌悪感、ひねくれチー牛とかそういうことばをたくさん使って又吉みたいなことをいれば頭のなかのなんj民はバカにしてこないだろう
そういった自分の陳腐な感じ
ただアンポジティブなことをダラダラと言っていることで自分が何者かになったかのような気分になって、それに共感してほしいけど、そんなふうに共感してくれる友達もいなくて

そうだ!創作活動の理由をこれにしよう!
作品をつくって誰かに認められたいではなく自分に共感してくれる友達がほしくてその方法として創作をおこなうということなら、きっと作品がつまらないものでも、その作品の理由、所在が誰かに認められたいといことではなく自分自身の否定につながるだけなら、それはそれは気は楽になるだろう。って考えてる自分の自己否定的な性質に酔っているんじゃないかってきがしてならなくて、

いずれそれはもう又吉のネガティブさと文章の旨さのバランスを崩してただの友達がいないだけのやつになる
それがもう不安になってしょうがないから夜中にもかかわらず、そしてまだ未成年という分際にもかかわらず、精神を開放して、自由なアイデアを得るために買ったはずのCBDリキッドを吸って
そうすればCBDの靄を出してる自分に酔えるだろうっていうのも恥ずかしくって
創作とかに対して「自分に酔っているんじゃないか」って思ってるのと同じように、CBDを吸うことにも「自分に酔ってるんじゃないか」って思ってるはずなのにCBDには一線を簡単に超えてしまう。
それってつまり、創作に対しての「自分に酔ってるんじゃないか」っていうのはCBDを吸うというときに芽生える同様の言葉で表せるものの本質的な性質では一緒ではなく、単純に自分に勇気がないことを又吉ライクな言葉で自分の中の又吉に責任を投げつけることで楽になろうとしてるんじゃないか

パソコン(決してコンピューターのことではない。パソコンOnly)はそういった面で万能的で画期的だ。
こうやって文章にしてしまうと急に陳腐なものに見えてしまいがちだが、コンピューターグラフィックスつまりCGやプログラムによって実現されるソフトウエアとかになると、ユーザーにその感じを伝えつつ、ダサくなくいれる。
それはもしかしたら逃げなのかもしれない。
僕はプログラマーで、表現者でアーティストの気分だけど、それは文章で表現できない!おてあげだーっていってるだけなのかもしれないな。

でもコンピューターがすごいってのには代わりはない。
プロレタリアート文学よりも
ギターを弾いてロックバンドを結成するよりも簡単にそして強力に世界を変えたり、もんくを言ったりできるんだから。
もちろんそれは言論の自由が確立された状態でね。

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