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そもそもの話。後編

“話の詳細は割愛させていただくが、7年前に足を運んだライブで演者の後ろに立っているスクリーンにMVを流すというものがあった。私はそのMVに惹き込まれた。「映像の力ってすごい」。これが私の原点である。完全に映像の虜にされてしまった。そして同時に「自分も作ってみたい」と思うようになった。”

“背景の映像の世界に魅了された私は、ニコニコ動画を視聴するようになって見つけた、この動画でまたさらに衝撃を受ける。”

前編(加筆修正した!!!)より

前回(加筆修正した)の記事で、映像始めたきっかけが七薙さんというか方だという話を書いた。インターネットによって「モーショングラフィックス」の存在を知り憧れた私は、なぜか色々あって実写の世界へと足を踏み入れるようになる。そんな私にやってきたとある機会とは

というのが前回のあらすじです。

とある機会、というのが、2018年に撮影された「赤い橋のある町で」という作品の参加です。市民映画事業というものであってるのか自分でも不安ですが、市民映画です。余談ですが私はこの市に住んだこともないのですが、縁があって参加しました。
その縁というのが、ちょうどこの作品の1年前の作品から姉が役者として参加しており、今回も役者として参加していました。その紹介から私はスタッフとして足を運ぶことに。
1日だけしか参加してないにもかかわらずクレジットに名前を入れてくれました。(この頃はまだ芸名がなかった頃なので、本名で載ってる(笑))

当時の写真があれば良かったのだけれども、上映会の写真しかなかった。

高校でのカットの撮影でした。寒かった記憶しかありません。人の温かさと外の寒さの差がすごすぎた。母が運転する車で行ったこと、姉が在籍校ではない制服を着ていたことを今書いてて思い出しました。
ここで仲良くなった人とはちょいちょい連絡を取ったりとらなかったり。

この時は進路に思い悩んでいて、進路希望調査を見るたびに結構ストレスを感じていました。赤い橋〜の撮影は高校2年生の冬で、やりたいこともない、勉強もしたくない。担任はあまりにも勉強しない私に頭を抱えていました。成績がここでは書けないくらい酷かったものですから。
PC触るのが好きだからそこらへん学べたらいいなと、姉と一緒になりたくないから理系クラスにいったものの…。

私の記憶が正しければですが、この辺りから映像業界行くのもありかもなー、と思い始めてはいました。
それと同時に、やりたい映像と違う方向に進んでいることにギャップを感じていました。CGやモーションをやりたかった自分にとって、実写は正直言って気乗りしていませんでした。

悩みながらも、映像を作る楽しみに完全に目覚めていた。進路も考えなければならない。はっきり言って困ってました。映像やメディアアート自体の興味はあったので、留学した時も、写真の授業とかを受けさせてもらったりしました。
帰国後、うだうだしてる間に個人的な事件(省略)があって、完全に映像業界に行くことを決めます。これが高校3年生の夏。これから勉強、絶対無理。オープンキャンパスで足を運んだところを第一志望にしました。そこは映像学科ではありません。文理融合(理系に近い)学部で、私は映像以外にもメディア(マスコミだけではなく、表現手法や媒体の技術など全てを指します)という分野に興味があったこと、仮に映像で折れても選択肢が欲しかったことが結構大きかったです。
模試ではぜっっっっっったいに合格しないだろう、そんな判定ばっかでした。何せ勉強していなかったので。恩師からは「こいつは好きなことしか勉強しない」そう言われてる人です。
私に残された選択肢はAO入試(今は総合選抜とかって言われてるらしいですね)で合格を決めること。ペーパーテストはありますが、ほぼ面接と高校からの内申書と志願者が書く志望理由書で決まる、というものでした。

進路を完全に固めた頃に、赤い橋〜の監督が次はプロデューサーとして地元松山市、しかも道後を舞台にした映画「ゆだまのきもち」を撮るという話があり、引き続き姉が役者として、私はスタッフとして参加しました。(この頃も芸名なかったので、本名でクレジットされてる)
おいおい受験生何している…と言われそうですが、恩師から「好きなことをやらせた方がいいと思います」と言われた母がもう諦めて見送ってくれてました。拠点も実家から歩いていけるくらいの近所だったからなおさら。
探せば私が写ってる映像とか出てくるんじゃないかな…。

結構な確率で現場には顔を出していましたし、カメラも回したし、音声もやったし、土砂降りの台風のなか、でかい窓のそばで「わーーー台風だぁ」とか思いながら編集してたりしました。受験生の夏なのにほんとに映画ばっかりやってましたね…。

まじでこの撮影の夕日綺麗すぎた
あの撮影にて
上映会に参加した人たちで。
カメラした時の写真
監督と追加カット撮りに行ったやつですね。カチンコの文字書いてるの自分だったはず。
実はチラシ裏のデザインも担当してたりしました。
台風の日の拠点
編集中。かぼちゃプリン食べながらやった。

この映画のおかげで私は受験合格しました。ここで活動してることを学校に報告していたため、担任が無茶苦茶詳しく内申に書いてくれたのです。電話までされて説明しました。(余談ですが、この電話の前日に担任と牛丼屋でばったりと会った)

創作意欲が沸いた自分は「スピンオフを作りたい!」と考えるようになります。同じようなキャストで撮りたいと思い、監督は同じ監督にお願いして自分は助監督として入ろうと思ってました。しかし監督に「涼々さんやればいいじゃないですか」的なことを言われて、監督をやることになりました。2019年初め、ようやく氷霧涼々のおでましです。

初監督。体力も神経も根こそぎ持ってかれました。
機材はないし、場所を借りる力もない。
今、東京で地元で映画撮ってた話を友達にすると、「部活?」と聞かれるのだが、個人でだよ、と返すと「そういう諸々のことどうやったの…?」ってすごい神妙な面持ちで聞かれますが、田舎の縁の力をそれはそれはフル活用しました。
機材はプロデューサーからお借りし、場所は同じくプロデューサーの紹介や、話を聞いて協力してくれた家族の紹介のおかげでお借りすることができました。「隣は親戚だと思え」という呪いの言葉にこれほど感謝したのは後にも先にもこの時だけです。

タイトルは最後まで悩みました。「何かあればいいのですが…」と周りに零したのですが、いい案は来ず、歩いている時に思いついた「結う糸、暁。」になりました。
たまに見てくれる人がいるみたいで、2桁再生だと嬉しいな、だったのがなんと500回再生されててありがたすぎます。
協力していただいた方、そして見てくれた方に最大の感謝を。

こうして昔の作品載せるのちょっと恥ずかしい(笑)

「結う糸、暁。」を制作した際は、吹っ切れていて、実写も楽しいし、もしできるなら実写もCGもどっちもできる人になりたいと思うようになっていました。

この作品と同じくらいにアイドルの撮影に入れてもらったりしていたりして、お客さんが撮った写真に自分は写ってたとかあったりしましたが、

アイドルの現場にて。踏み外したらスピーカーのところに落ちるから動くなと言われました。

別の作品の脚本も執筆しており、「結う糸、暁。」とはメンバーが少し変わって同年代おおめで映画を撮っていたのですが、やはり限界があって、厳しかった部分は多かった。未完成のままチームは解散した。

そんな悔しい想いをうまく昇華できずに上京し、落ち込んだりしましたが、事務所に入って力をつけたりしました。事務所で実写の楽しさを再認識したので、今は辞めてしまいましたが、事務所の方々にも感謝しています。地元じゃ行けないような現場に参加させてもらったりして、すごいいい経験になりました。

もともとやりたかったモーションやCGでの活動を本格的に始めました。実写を勉強したことや、私自身のスキルが上がったことでようやく本当にやりたいことができるようになった。
CGを勉強し始めて気づいたのは、映像の基本は大体実写にあるということ、今あるものを使ってつくるか、何もないところから一から生み出して配置するかの違いなだけで、大体一緒だと。この気づきは私のもともとの基盤が映画じゃなければ気づかなかったと思う。

遠回りしているとは思うけれども、私的にはこれで合っていた、と今なら自信を持って言える。

そんな今に至るまでの遍歴の話でした。思ったよりいろいろやってるんだなと気付きました。関係者の方々には一生頭上がりません。
受験生なのに映画の活動やるの許してくれた家族も学校もすごいなって…諦めたのだとも思うんだけど…
なんなら「結う糸、暁。」に関しては担任に「センター(今は全国共通試験とかっていうんでしたっけ?)終わるまで動くな」言われてたのにセンター前から撮ってましたからね…(笑)

上京後の活動は探せば出てきますし、定期的にTwitterとか、たまにnoteで告知を回してます。何か出せる情報があれば、どんどん出していきたいし、今参加しているものもあるので、今後の続報をお楽しみに。

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