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映画『帰れない山』。誰しもが持つ何も成し遂げないかもしれないという思いと、人生の納得感の拮抗について考える

自分を曝け出すことのできる相手はいつになったら出会うことができるのだろう。いや既に出会っていた?それとも出会っていたけれど、自分の正直な感情を見せることができなかったあの人だったのだろうか。

自分らしくいられる環境は大事だ。誰も知らない自分の秘密の居場所、景色、それか大事な記憶?それは過去には落ちていなくとも近い未来に待っているのかもしれない。

『帰れない山』は、とても短い人生におけるよりどころを探し求める人に送る手紙と言える映画かもしれない。ついでにイタリアアルプスやネパールの最高峰の山々の豊かな自然と、聳え立つ岩肌を眺めるには持ってこいの映画であるということも忘れてはいけない。そこに男二人の濃ゆ〜い友情関係の物語までついてくる。しかし決して自然賛美、ブロマンス友情物語では終わらないのだ。雄大な自然を背景に、人生の紡ぎ方のヒント、アグリツーリズム、グローバリゼーションによる分断についてとことん考えさせてくれる多面的な作品となっている。以下ネタバレアリで様々な視点で映画の魅力について考えてみた。

あらすじ

物語はピエトロとブルーノという12歳の少年が過疎化するアルプスの村で出会うところから始まり、彼らの友情の人生のもつれをイタリアの雄大なランドスケープを背景に紡がれる。ピエトロの両親は、トリノの排気汚染から逃れるために、夏の間、村にやってくる。ピエトロは、農家のおじとおばの家に滞在する地元の若者ブルーノと親しくなる。しかし、ピエトロの両親がブルーノに都会での高等教育をちゃんと受けさせてはどうかというオファーをするが、ピエトロの父親が断り、やがて二人は疎遠になってしまう。数年後あることをきっかけに二人は再会するが…

ブロマンスと自然の共演が演出するのは父親像の再定義


ピエトロもブルーノもお互いにDad issueを抱えている。親父とうまくいかない二人は、家を離れて川や、草っ原や尾根に自分達のオアシスを探し求める。

しかし、共通点と言っていいのはそのくらいだろう。実際、幼少期のシーンで山の中で戯れあう彼らのプラトニックな関係が眩しいのは、彼らの外見と内面の違いも大きい。こ綺麗な服を着て、ほっそりとした素直そうな都会っ子のピエトロと、方言を喋り、悪く言えば粗暴、ぶっきらぼうでやんちゃなブルーノ。
水と油のような二人が、あだ名でよぶ会うほど仲良くなるが、築かれた絆は家庭の事情でやがて弱くなる。

次に再会したのは青年期。それもほんの数秒。大学生ほどのピエトロが仲間達と飲み屋にいる際、年上の仕事仲間と思しき人たちとたくましい体つきをしたブルーノが入店してくる。二人は軽く視線を交わすのみ。やがてピエトロは、エンジニアの父親の進学方針や、山行予定を勝手に決めて山に連れて行こうとする姿勢と折りが合わず父親との距離を置くようになる。

時が経ちピエトロの父親の死をきっかけに再会する二人。ピエトロは父親が山小屋を残し、ブルーノと修理する約束をしたことを知る。父親から譲り受けた山小屋を夏の間二人は修理することになる。山小屋修理はピエトロにとって、向き合うことを諦めていた父性の再定義かつその複雑さを理解する時間となる。山の中で行われる男性的なDIYという行為は、ブルーノの性格と仕事に対しての姿勢というレンズとして、受け入れられなかった父親像の受容と友情の回復を可能にする。レストランをふらふらと渡り歩きながら文筆家を夢見るピエトロにとって、ブルーノはとてもたくましく大人の男性に見えている。一方ブルーノは、ピエトロパパとの交流を経て、失われた父と子の時間を取り戻し、小屋を直す行為を通して、ピエトロパパの理念や父性をピエトロの前で再演する。というように前半だけでもお腹いっぱいになる映画なのだ。

階級の違い

二人の相違点は社会階級である。ピエトロは(多分)知識人中流階級、ブルーノは労働者階級。映画では4半世紀かけて、そのような二人の幼少期から青年期にかけての環境が、階級の違いによって左右され、彼らの人格と人生に多大な影響を及ぼしていることが描かれる。

ピエトロは、大学では文学を専攻しようするほど文学青年。小さい頃から都会での小中等教育も受けてきた。達観しているような、悟っている脱力した青年で、モラトリアムを引きずり、街のレストランで働いている。

一方でブルーノは、おじさんおばさんと一緒に放牧をしながら生活する山の子だ。劇中で、ピエトロパパが自分の子供と一緒にトリノの町にある学校で教育を受けられるよう支援しようと申し出るが、結局ブルーノパパの反対もあり、大した教育は受けなかった。ピエトロも、このピエトロパパの申し出にとても反発する。なぜならピエトロにとって、ブルーノは自然の中で暮らし、根っこから都会育ちの子供たちとは違う感性を持っている稀有な存在だったからだ。
このようにブルーノは"普通"の子供とはいくらか違った感性を持って育っている。ブルーノが育った村は過疎に苦しむ限界集落、経済的自由を求めて、村の外に出る人がほんとんだ。彼は過疎の村で育ち、自分はここから抜けだす事はない、という一種の諦めのような大人びた発言を子供の時からしている。それでも感情表現が苦手で不器用なブルーノだが、真面目な大人に成長する。

このように、二人は大人になっても自分の階級を抜け出さず、むしろ社会的な振る舞いもそれぞれの環境と人間関係によって形作られている。ピエトロは、大学を出た後、定職にもつかず、レストランの厨房を渡り歩き、夜は大半の若者のように遅くまで飲み歩く。典型的なモラトリアム期にある青年の象徴のような存在だ。オーディエンスも登場人物の中では、よりピエトロに感情移入しやすいのではないだろうか。

ブルーノは、ピエトロの父親とも馬があったようだ。ピエトロは結局父親とは疎遠になるが、ブルーノはピエトロパパと山を一緒に登ったり、まるでピエトロの代わりのように仲良くしていたことが見て取れる。思うに、ピエトロにとって受け入れらなかった頑固でトキシックでお節介な父親がブルーノとソリがあったのは偶然ではない。ホモソーシャルな側面がより強い二人にしか共有できない苦しみもあったのだろう。


一つの山に登り続け、一生を過ごしたブルーノは何を象徴するのか

チーズに選ばれたブルーノ

映画の後半でブルーノは、親戚が残した納屋で、機械を使わず伝統的なチーズ作りビジネスを立ち上げる。ピエトロの女友達ラーラとも付き合いだし、彼女は不器用なブルーノの代わりに台帳管理、製品卸しなどをサポートするようになり、やがて二人は結婚し子供も生まれる。

このいかにも社会に縛られていなそうで、オフグリッドな生活をしているブルーノだが、やがてビジネスは傾き、夫婦仲は悪化する。

ここで大事なのは、ブルーノは自分の生きる道を見つけ、人生を切り開いているように見えるが実は、この山でのビジネスは選ばされているものだと言うことだ。

「山奥でチーズを夫婦で作っています」。このように言うといかにも今風な自由な生き方をしている人っぽいし、あこがれる若者も少なくないのではないだろうか。ブルーノはまさにそんな生活をしているが、実際彼はそのようなモチベーションで始めたわけではない。彼には山以外に居場所がない。チーズ納屋も、唯一残された財産であり、彼がチーズを選んだのではなく、チーズが彼を選んだと言ってもいい。

ブルーノとは、教育を受けることなく育ち、外界とビジネスでも人間関係でも他と接続する術を失った人間なのである。

このような人間だからこそ、ピエトロと気まずくなった後、ピエトロの父親が死んで合うことになった際、唯一子供時代つながりをもてたピエトロを特に感情的にもならず、家づくりを一緒にするという行為によって外界との再接続を試みるのである。

僻地ツーリズムとイタリアの限界アグリビジネス

資金繰りに苦しむブルーノの妻ラーラは夏の間、空いてる部屋を貸し出すことを提案するもブルーノに反対される。

言うゆるアグリツーリズムとしての存続。自然豊かな景色、農業、現地ビジネスの体験とその土地独特な味覚を堪能してもらおうと言うのだ。

一見悪くない案なのだが山一筋のブルーノにはそれが受け入れられない。元々山の人間ではない人に対してブルーノは冷たく距離を保つ。

大事なポイントは、アグリツーリズムが自然資源の活用というポジティブな理由ではなく、限られた資金調達方法として仕方なく選んだネガティブなものだということだ。過疎化するイタリアの地方に住む、あまりにも専門的なプロダクションチェーンの一部として生きてきたブルーノたちにとっては、アグリツーリズムという手段しか残されていないというグローバリズムの個人に対しての暴力に他ならない

この出来事は、山奥にいても、ローカルアイディンティの醸成は、グローバル化のhomogeneityに脅かされてしまうとを象徴しているように捉えられる。

ブルーノは父親の反対を押し切って教育を受けた方がよかったのだろうか。大工スキルだけでなく違うスキルも身につけた方がよかったのだろうか。

須弥山とグローバリゼーション

世界の中心には最も高い山、須弥山(スメール山、しゅみせん)があり、その周りを海、そして8つの山に囲まれている。8つの山すべてに登った者と、須弥山に登った者、どちらがより多くのことを学んだのか。

CINEMORE, 帰れない山』フェリックス・ヴァン・ヒュルーニンゲン&シャルロッテ・ファンデルメールシュ監督 大きな世界に存在すること【Director’s Interview Vol.310】の訳より引用

劇中ではグラッパを飲みながら語らい合うときに登場するヒンドゥー教の想像上の山、須弥山。同じ山に残り続けたブルーノが前者、ネパールなど世界の山を渡り歩きながら山の民の生活に触れ、本を出版したピエトロは後者だ。

ここでブルーノは、須弥山を選んのではなく選ばされたと解釈するのはどうだろうか。

ブルーノは必ずしも、自分の知っている山が最高だと思っているわけではない。しかし、他の山を知っているわけでもない。他の山を、世界を見るという選択肢さえ最初からないのではないだろうか。彼には曲げることのない自然への愛情とアイデンティティがあり、自分と山が切っても切り離せない状態になっている。

一方ピエトロは、モラトリアム野郎だが、こだわりを捨てることができる。男らしさを捨てることができる。これは、小さい頃に高山病にかかり、登頂するという目標がそこまで彼にとってappealingじゃないことから見て取れる (幼い頃父親に連れられてピエトロとブルーノは雪山を登り、ピエトロが高山病になってしまい、体調の悪さを訴えるが、ピエトロパパは最後まで無理やり登頂しようとする)。

ピエトロはとても現代的な人間だ。グローバリゼーションのfluid なmobilityを享受している。世界中の山に飛んでいき、英語でコミュニケーションをとることができ、相手と同じ視座を持って物事を見ることができる。グロバリゼーションがもたらした移動の自由はさらなる格差を二人の人生にもたらしたこと冷酷に表す。Baumanは移動は新たな分断をもたらした、と言った。

In the globalized world ‘mobility has become the new source of stratification’ (Bauman, 1998)

Bauman, Z. (1998). On Glocalization: or Globalization for some, Localization for some Others. Thesis Eleven, 54(1), 37–49.

どちらかの人生がいい悪いの話ではない。ただ、自分の選んだ人生に起こり得る障壁を予見しそれでも飛び込むのと、予見すらすることも出来ず、その選択肢しかないのとではだいぶ境遇が違う。少なくとも、ピエトロは何も成し遂げないかもしれないという思いと付き合い続け、自分なりの人生の生き方を寄り道をしてでも見つけ納得感を持って生きている。

とは言っても100%ブルーノには自由意志がないとは言い難い。ブルーノには現代人にはない物事の本質を純粋に評価する力を持っている。それは資本主義に犯されていない価値観と言い換えても良いだろう。この性格は、ピエトロの友達が口にした表面的な自然賛美に対するブルーノの辛口な返答、妻のラーラが、アグリツーリズムの提案をするときに声を荒げて反対したことから見て取れる。彼にとって自然とは、ソーシャルメディアの映えのためのセットでもなく、ツーリズムの対象でもない。自然とは、自分の住む家を作る材料になる木があり、生活を支える家畜が暮らす空間であり、飲み水を汲んでくる川である。だから、彼にとっての当たり前であると同時に尊い自然と共にある生活という価値観が、ビジネスの転覆という資本主義の暴力に晒された時、誰よりも自然に対しての愛を剥き出しにする。最終的には間違った選択をしたと個人的には思うが、彼は自分の選んだ人生に最後の瞬間まで向き合っていた。

映画の終わりのシーン。ピエトロが植えた木は立派に成長していた。絡み合い成長した木は、どちらの生き方も否定も肯定もしない。生き方は違えども、それぞれの道を二人の人間が助け合い、お互いに支え合いながら生き抜いたことを象徴していたように思えると同時に自分らしく生きる誇らしさも伝わった。

無音で流れるエンドロール。過剰な演出とノイズに麻痺してしまった現代人の価値観を問い直してくれる素敵な作品は終わり方も粋だった。



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