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2019年11月3日(日)開催::喜多村みかトークイベント【後編】

この記事は喜多村みか個展「TOPOS」において2019年11月3日(日)に開催されたトークイベントより編集を加えたものです。

2019年11月3日(日)開催::喜多村みかトークイベント【前編】はこちら→
2019年11月3日(日)開催::喜多村みかトークイベント【中編】はこちら→

【作家】喜多村みか(写真家、以下K)
【ゲスト】山峰潤也(水戸芸術館現代美術センター 学芸員、以下Y)
【ファシリテーター】篠田優(Alt_Medium共催、以下S)

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今回発売された『TOPOS』について

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Y:この本には様々な方の寄稿文が掲載されていて、これは是非皆さんにご購入いただいて(笑)読んでいただきたいと思います。

K:あ!そういえば今回7名の方に寄稿を依頼したのですが、そのうち今司会をしてくれている篠田くん(Alt_Medium)と、山峰さん。それから今日偶然、映画監督の越川道夫さんと、俳優の山田真歩さんがこのトークにちょうどいらっしゃってるんです!

Y:この本の寄稿文は、それぞれが全然違う角度で喜多村さんの写真について書いているのですが、僕は喜多村さんの写真に対して言葉をつけることってすごく野暮ったいと思っていて、推薦しておきながら言葉に困って、まるで“何も言わないように何かいう”という書き方せざるをえなくなる。彼女がやろうとしていることに、ある種言葉によって定義できる「これはどういう文脈において、こうだから素晴らしいのである」というのは非常に僕の中ではナンセンスなことに思える。だから僕が『TOPOS』に寄稿させていただいた文章は彼女がしてきた表現に対する僕個人の応答であり、非常にエッセー的な文章になっています。
この本の中では、皆さんが本当にそれぞれ喜多村さんという個人との関係性も含めた話が書いてあることで、喜多村さんと、喜多村さんの撮る写真という二つを見ることができるかなという気がします。
その寄稿の中で、僕が「その通りだな」と思った文章は映画監督の越川道夫さんのテキストにあった

「そこにある石はここにある石とは違う。この石は他の石とは置き換えることができない。だけど僕たちはそれを石という言葉で一括りにしてしまう」

ということが、ある種、そこにある石そのもの、その瞬間、例えば光の光彩であるとか、出会い方であるとか、様々な文脈において“今ここ”という循環の出会いの中で人が突き動かされていくことを感じる唯一性がある。もともと彼女の作品は「○○といった写真です」とは言いづらい部分を表現しているのかな、と感じていながら、でも私たちはそれを何かしらの言葉で括ろうとしてしまう。そうして言葉にしてしまうことで何かを抜け落としてしまうことを自覚しながらも無自覚という。しかし言葉にしなければ言語でコミュニケーションを図ることができないという矛盾を喜多村さんの写真と向き合う時に感じます。喜多村さんの写真を通すと、我々が普段している言語というコミュニケーションの外側にある、ある種の美しさや世界の多様性を感じることができるし、そういう言葉の奥にある世界やその広がり、見ることへの細やかさを感じ取ることができると思う。

K:私もそれぞれに書いていただいた、それぞれの中にすごく好きなところがあるんですけど、今山峰さんが越川さんの文章をおっしゃったなかで私のすごく好きな部分があるのでちょっと読ませていただいていいですか。こういうことがスッと言葉になれば、私はもう少し違った写真が撮れるのかもしれないんですけど、、、(笑)

「例えばその場所を猫が横切った記憶も世界には記録されるはずだ。猫が横切る場所なんていくらでも無数にあるんだろう。しかし、その猫が、そこを、横切った。その瞬間は、その瞬間だけのものだ。無数にあるその瞬間が、無数にあったとしても、そのひとつひとつは、その瞬間だけのもので、他の瞬間とは決して置き換えることのできないものだ。写真が捉えるのはきっとそのような瞬間のことなのだ。喜多村みかさんの写すその場所は、そのようなものとして、そこにある。一つの場所をune place 地上に sur la terre それは本来唯一無二でしかないものを、どこにでもある取るに足らないものとして、その違いを見ないようにしようとする何かとの戦いなのだと思う」。

Y:やっぱりこの言葉はすごく重要で、社会の中にある「これは○○である」と説明しきれてしまうようなことや「なぜ良いのですか?」と問われた時に「こうだからよいのです」と定義できるものこそ価値があるという、場合によってはわからないものや、ことが捨てられてしまう時代に対する応答でもあると思う。

K:例えば私の写真について「どういう写真ですか?」って聞かれた人は、「なんかどこにでもあるものとか、取るに足らないものを撮っている感じなんだよね」なんていうんです。そしてそれは、“日常の些細な出来事”といった言葉をつけられることが多いんですけれど、やっぱりその言葉が持つ力というか意味の中には、本当はいろいろな要素があるはずのに、越川さんが書いてくださったように、その違いを見ないようにするとか、見なくても困らないものとしてしまうというか、、、そのまま保存するというか、、そのままどっかいってしまうといったら変だけど、そこに“闘い”と書いてくださったのが私にとっては「あぁ」とまさに腑に落ちる部分だったんです。

Y:人が、喜多村さんの作品について言葉にする必要があるのは、“見聞きしたことを他の誰かに説明する”っていう状況があるからだと思う。この「横ぎった猫」とあの「横ぎった猫」は違うのに、言葉にするとどちらも同じになってしまう、そういうときに抜け落ちてしまう些細さなんじゃないかなと。でも、些細なことだと思っていることは、ある意味些細ではないことでもある。例えば、日々まわりを取り巻く日常の風景は常に些細なものだけど、それが毎日見続けることで積み重なっていって大きな影響を与えるようになる。そう考えると、これはもう些細じゃない。そういう見えなくて、意識化されてないところにある繊細な、しかし強い影響力を持っている“些細なこと”をキャッチアップしていくことを喜多村さんは非常に貴重な仕事をしていると思う。

S:今おっしゃったことでいえば、写真が持ちうる“今ここ”の唯一性というか、被写体とのその瞬間の出会いが唯一のものとして現れる、例えば光の当たり方も刻一刻と変わるということを考えれば、それもかけがえのない一瞬である、と喜多村さんも意識されているということなのだと思います。そこで、例えばちょっと変な質問かもしれませんが、そうした“今ここ”唯一のものを、ある種塗りつぶしてしまうものとして“広島”や、“長崎”というものがありうる。これはもしかしたら“福島”というものもありうるかもしれない。こうして広島や長崎で撮影した写真が、必然的に“広島の写真”、“長崎の写真”とされ、自動的にその土地の過去を参照してしまうことがやはりあると思うし、写真の歴史というか、特に現代の写真における多くの実践はそれに抵抗するものをも含んでいる。喜多村さんの今作は反戦とか平和といったわかりやすいメッセージを打ち出したい訳ではないように思えます。そうしたある種、作品の意味合いを塗り固めてしまうような過去に対しての“今ここ”とか、些細であるけれど唯一であることを掬い出すような実践に向けての、なにか試みのようなものはありますか?

Y:平和は平和がいいよね。(笑)

K:それはそう。笑
もちろん私は戦争反対ですし、平和の方がいいんですけど。もちろん広島や長崎ではない場所でも、このような理由で撮るべき場所は多分無数にあると思います。これは日本だけに限らず、歴史を持った土地や場所。とてもたくさんあると思うんですが、私は長崎にひとつの縁があったということは撮影する上でじゅうぶんなきっかけだった、その上で長崎に何度も通っていて、やはり広島へも行かざるをえないというか、なんとなくそう感じたから行ったわけです。
もっというと、こういう場所をこういう風に撮ることを通して反戦もそうですが、そういった過去の出来事と、今たちがどのように接しているかというと、これは個人的な経験かもしれないけど、“こういう距離感”で向き合っている。あるいは向き合っていないのではないか、と考えることもある。だからテレビを撮った写真でハッと考えたんです。というのも今、情報は、辛い歴史を持つ土地の話を映像や本などといったあらゆる場所から目に入るわけです。それは私自身が具体的に何か行動して、悲劇的で今も進行している、例えば内戦やその他のことを何も止めることはできない。大げさにいうとそういうことだけど、例えば広島と長崎での事実は、私にとってはそういうものに近づく一番の近道というか、入り口といったら変だけど、この写真を撮って、さらに考えることを通して、これは過去のことだけど今起きている遠くの出来事や、そういうことを考えることなんだと思っている。それはもしかしたら福島でも沖縄でもありうるし、ビルケナウかもしれない。いろんな場所がそういう場所になりうるけど、私自身が何かしら思いを巡らせていたい。そうしていれば止められることとか、日常があることを持続できるかもしれないと考えたりする。だから、私の中でこの作品に精一杯説明をつけるなら、それぞれの写真にその土地の名前をつけてちょっとでも振り返ってもらおうと思っています。

Y:この作品って、どれくらいの期間かけて撮ったの?

K:ちょうどeinmal ist keinmalの写真集を作った後からなので、2013年から14年くらいからですかね。

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Y:なんで長崎に行ったの?

K:それはこの写真集を作った後に、次どうしようかなと割と最初はあてもなく写真を撮りに行きました。その時は長崎だけでなく自分の原風景巡りといった感じで、実家がある福岡や、自分が過ごした場所に行って、写真を撮ってあとから眺めつつ、しばらくは長崎だけに通ってたんですけど、ある時からそれまで縁がなかった広島にも行くようにもなりました。

Y:多分篠田くんがさっき言ったことは、広島や長崎を強い言葉でくくってしまったときに「これはこうだ」という部分が、喜多村さんの作風でもある言葉にできない、強いていうなら些細なものであるからこそよいのであるという部分が衝突しちゃうってことだと思う。

K:私はこの作品においての願いとしては、衝突ではなく共存してほしいと思っている。同じところにいた時に人がどう捉えるんだろうという疑問ってわけじゃないけど、どうかな?ってところ。

Y:僕がこの作品のサンプルを受けとった時に、篠田くんが言っているような疑問は多少ありましたが、それは割と簡単に払拭されていて、広島と長崎であるっていうことをベースにして、よりその記憶を蘇らせるというか、そのテーマに寄せていく表現はいくらでもできるし、散々やられてきていることだと思う。でもこの作品はそうした部分をセンセーショナルに扱うわけじゃなく、僕は広島と長崎に堆積した日常についてテキストの中で書いていて、原爆が投下され、それから時間をかけていろんな人の日常や行為がそこに積み重なっていった時に、ステレオタイプなイメージとは全く異質なものになっていったはずで、そこにそこで流れる自然さや、当たり前があるということを思っていたんです。この作品は、これが広島や長崎であるということがわからない写真も多い。そうすることによって広島や長崎という言葉から受けるバイアスと、どこにでもある風景が混在した、ある種写真の意味性、位相みたいなものを考えると、それは喜多村さんが人生のルーツを探る中で、引かれたからこそ行ったという現象の中で、でもその場所にある文法が変容されて、作品になったということなのかなと思った。

S:僕がこの作品において面白いなと思う部分は、さっき仰っていた唯一性みたいなものを実際に感じるところです。それと同時に、喜多村さんの作品はいい意味で“ありふれさせる戦略”みたいなものがある。土地というものが一つの場所だけ浮き上がってしまうのではなく、決して本来は交換可能なものではないんだけど、どこにも在りそうに見せることによって、むしろ特権的なものからはずれたものになるという二つの、逆向きのベクトルが同時にある。まさに“唯一のものであり、ありふれているものである”ということを感じさせる面白さがある。その意味でやはり、それが機能する時、撮影された場所が広島や長崎というところに、それでありつつもここでしかない、過去のものを引き受けながらもやはり今ここでしかないということがあるような気がします。

Y:今後そのテーマによって出てくる意味、バイアスが今回の写真の中である意味すごくいい方向に機能しているのは一歩間違えるとそうではない可能性というか、物事をセンセーショナルな方向に導いてしまうことがもし仮に起こった時、喜多村さんの作品のよさが瓦解してしまう可能性が0ではないかなと思う。今後は自分が撮りためてきた写真の編集の仕方、あるいは被写体の選び方を、どういう風に考えていくのかな。

S:今後も「TOPOS」自体を継続していく意志はありますか?

K:「TOPOS」はもう少し撮りためたらひと段落させようかなと思っている。
多分さっき篠田くんが言っていた、“ありふれさせる要素”を、ありふれさせなくすることはきっと、簡単だとは言わないけれど、例えば突出したイメージを選ぶ、あるいは作るように、わかりやすく言葉をつけやすくすることはできなくないと思っています。でも自分自身が天邪鬼な性格ということもあるけど、そうした突出したイメージを用いて主張をすることは私がしなくてもいいかなと思うところもあります。

Y:それはまぁ他の人がしてくれるから大丈夫です。笑
喜多村さん以外の写真家がやっていくから。

K:さっき展覧会を見にきてくださった方と話していて思っていたんですけど、実は私の実家はお寺なんです。それも祈願をするお寺なので、涙を流して感動して帰られる方や、お礼参りをしにくる方がいるんです。小さい時から言葉にならないものというか、例えば気持ちのやりとりの場所っていったら変ですけど、そういう場所にいたから、きっと言葉にならないものとか思いに対する信頼が、ひょっとしたら人より強いのかもしれない。例えば祈りを寄せるという言い方はあれだけど、それでどうにかなっている場面を見ているからこうした活動をいまでも続けていられるのかもしれない。

Y:そこに流れている気持ちや気配に引き寄せられていく人の思いに、ある程度の信頼しているってこと?

K:信頼しているっていうのはあるかもしれない。そう言えば昔、私は父に「祈願料ってなんで三千円なの?」と聞いたことがあるんですが(笑)、言葉にならない価値であるとか、(作品にも)値段がついてるけれど、そういう何かに置き換えられない価値や、思いの価値といったら変だけど、そういうものが割と身近にあったので。

Y:写真をとるってことは何か対象を写し撮ることで、それはつまり奪ってきて、他のことに置き換えて、その過程の中に意味を与えるという、場合によっては搾取的になることも起きうると思う。特にドキュメンタリーの世界ではそういった議論は強くされてきているんですけど、でも最初から喜多村さんは、そうじゃないことをしているんですね。

(終)

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