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映画「横道世之介」

今更ながら横道世之介(2013)を観た。主題歌も含めなんとも素晴らしい映画だったのでここに書き残しておく。


これは横道世之介の”ほぼ”一生を表した映画である。まず上映時間に注目したいのであるが、2時間40分ととにかく長い。正直に申し上げて僕もよそ見をしながら観てしまったほどだ。さらに正直に申し上げるなら、一度中断して次の日を迎え、そこから再開して観終わったほどには長かった。

しかしながら、それでもなお僕の胸に深い余韻が残るほどであった。すなわち、そのような実に適当な見方でも、観客に映画の本質を見失わせないという意味において、この映画は非常に門戸を広く持った懐の深い作品であると言えるだろう。

ではこの映画の本質とは一体なんなのか。僕が考えるに、この映画のテーマは「生きる」ということなのではないかということである。

「人が生きている」ということは、実は非常に矛盾しているようであるが、その人が生きている間には実感されづらい。それは自分においても他の人においても、である。

どのような時に実感されるのかというと、「その人がいなくなってしまった時」である。「その人が生きていた」という過去形を持ってして、「その人が生きていた」という実感を生ぜしめるのである。

そしてそれは「語り」によって実感させられることが多いように思う。たとえば、法事などで家族と故人の話をする時を想像して欲しい。そこで故人について語ることによって、故人が生きていた時にはまるで考えもしなかった「故人が生きていた」という実感が、文字通り生き生きと蘇ってくる。そうした一つの事実を、われわれは体験的に知っているのである。

似たような状況が映画の中でも展開される。映画では過去と現在を行き来することで、横道世之介の一生が切実なリアリティを持って迫ってくるのだ。それは赤の他人の「一生」ではなく、れっきとした横道世之介の一生なのである。

そのような他者の「生きる」という行為に触れるということは、われわれにとって相当に深い意義を持っている。そこからどのようなメッセージを受け取るのかはやはりわれわれ観客に試されているのであるがーー。

少なくとも僕が受け取ったことは、「いつの日か僕も誰かに生を語ってもらえるように、精一杯生きてみよう」ということなのである。

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