見出し画像

日記 : 瀬戸内海の美しさ・演劇『糸女郎』・ハロウィン論【豪華4本立て】

 この記事は普段僕が個人的につけている日記を、雑に再編集して、気まぐれでアップしたものです。


令和5年10月28日 土曜日 
夜の瀬戸内海って美しい

 今日は中学の時の塾の先生に誘われ、某大学の大学祭に行った。なぜ中学の時の塾の先生と遊びに行くのかというと、馬が合うからである。最近知ったことだが、彼は20年ほどヨーロッパに滞在経験があり、本業はバイオリン奏者で、あくまで副業として塾講師をしているらしい。

 彼は最近、色んな大学の学祭に行くことにハマっているらしい。今回行った大学祭も結構面白かった。13時に待ち合わせだったところを3時間遅刻した僕を、先生は笑って許してくれた。
 写真サークルの展示が一番面白かった。先生のヨーロッパ仕込みのコミュ力を目の当たりにした。あれよあれよと言う間にサークルの皆さんと距離を詰めて仲良くなってしまった。彼らも、自分の作品について語りたかったようで、展示されている写真の、本来であれば聴けないような余談やこだわりポイントを聴けて良かった。先生は備品であろう一眼レフをいつの間にか借りて、サークルの人を巻き込みながら、面白がって彼らや僕の写真をパシャパシャ、おそらく数十枚とか撮っていた。
 「来年も来ますね」「ぜひぜひ」というやり取りをしたので、ぜひ来年も立ち寄りたい。

 帰りに某ファーストフード店で駄弁っていると、ふと僕の地元の話になった。僕の地元は瀬戸内海に面する香川県高松市である。先生は基本的に東京の人であるが、旅行が好きで高松にも何度も訪れている。夜、サンポート(高松港・高松駅の近くの公園みたいなとこ)から眺める海の風景が素晴らしい、と彼が言った。私は大いに感激した。地元ですら知っている人は少ないのに。なんとここに、あの景色の風情と美しさを理解できる人がいたとは!
 いわゆる「絶景」とは少し違うが、じんわりと心に沁み入るような、美しい風景だ。瀬戸内海は小さな内海なので、晴れた日の夜には対岸の明かりが綺麗に見える。この明かりを始めとした一面の風景が、本当に美しく、癒されるのだ。
 夏に地元に帰省した際などは、5泊6日滞在したうちの6日(つまり全日)、その風景を見に行った。それほど僕にとって慣れ親しんだ、大好きな風景だ。
 ( ↓ は夕方の写真だが、個人的なおすすめは深夜。)

 地元を背負ったつもりで断っておくが、同じ「対岸の明かりが見える」と言っても、例えば東京湾の夜景などとはまた全く別種のものである。(東京湾の夜景も綺麗だけどね。)
 内海特有の穏やかな波。水平線上にゆらゆらと並ぶその明かりは、正しく不知火のようだ。手塚治虫の『火の鳥』を読んだことがある人なら、黎明編の序盤を思い出すかも知れない。瀬戸内海は多島海で、香川と岡山の間の海に、いくつもの島が点在している。それらの島一つ一つに集落の明かり、そして灯台の明かりが見える。

 この風景は、街の中心部から少し離れた場所に位置しているJR高松駅の、更に奥にある。普通の観光客は駅より向こうには行こうとしない、と先生は言った。確かにそうかも知れない。その場所にいるのは大抵、ランニングや釣りやデートに来た地元の人間で、それ以外は私の先生のようなハイセンスな変わり者くらいしかいないだろう。
 もっとあの風景の美しさが知られて欲しいという気持ちと、知る人ぞ知る風景であり続けて欲しいという気持ちの両方がある。そして、もっとあの美しさを忠実に描写出来るように文章力を鍛えたい。先の私の描写ではきっとその美しさの本質は伝わっていない。
 ちなみに僕のおすすめは夜(出来れば深夜)だが、早朝でも、昼でも、夕暮れ時でも、なんなら雨が降っていても良い。それぞれの良さがあるのだ。

 1週間前にアコギを購入して、練習を始めた。先生が持って来いと言うので、今日はずっと持ち歩いていた。ハードケースに入れているので正直めっちゃ重い。ファーストフード店から出て、帰り際に少しばかり練習する。
 購入してから1週間、ここに来てアコギを弾くのが楽しくなってきていた。アコギを買ったばかりの私は初心者が取り掛かるには少々難易度の高い曲にいきなり取り掛かり、F#mやC#mに喘いで、はっきり言って全然楽しくなかった。
 しかし今日、先生に練習しろと言われたOasisの『Don’t Go Away』が、初心者向けの難易度であることを知った。もちろん私自身、大好きな曲だ。楽しい、楽しい。しばらくこの曲を練習することになりそうだ。

令和5年10月29日 日曜日 
唐組『糸女郎』を観劇した

 ワニのヤカ氏のCDとステッカーを求めて即売会・M3に行く予定だったが、起床すると夕方。即売会はもう終わっていた。残念。後日のBOOTHを待機。

 夜には従姉とその彼氏さんと、唐組という劇団の第72回公演『糸女郎』を観た。作者は芥川賞も取った劇作家の唐十郎。私が演劇という芸術媒体を鑑賞するのは、小さい頃に、劇団四季さまが地元の小学生を無料招待してくれたやつ以来である。
 朱色のテントの中にござが敷かれていて、その上に座って劇を観るというスタイルで、新鮮で良かった。テントの中に入ると、母方の実家の日本家屋のような、なんだか懐かしい臭いがした。
 劇の内容は個人的には非常に難解に感じたが、細部に差し込まれたユーモラスな演出のおかげもあり、一切退屈も胃もたれもせず最後まで熱中して観ることが出来た。
 以下、ネタバレ。

 この作品は(私の従姉によると)、この演目の初演(2002年)の頃にあった、とある「代理母出産」に関する事件を発想の元にしているらしい。その事前情報があると時代設定もその頃なのかと思ってしまいそうだが、パンフのあらすじの段階で「紡績工場」「座繰」うんぬんとある。場所は日本だということでいいだろうが、時代設定は複雑に混じり合っている(あるいは、時代を考慮すること自体無駄である)と理解するべきだろう。
 作品自体のテーマや諸々の演出・脚本などから考えて、主人公である昌の水晶の爪及び終盤で登場する水晶剣は男性器(あるいは男性性そのもの)のメタファーであり、ヒロインである蚕(役名)の口から出てくる糸は経血(=生理)のメタファーであると私は理解した。つまり、昌は自身の中指に持っていた水晶の爪を物語の終盤で失い、蚕はラストシーンで、水晶剣で自らを切り裂くわけである。蚕は自らの過失を弁償するために我が身を売り払い、昌はとうとうそれを止めることが出来なかった…ということである。
 劇鑑賞のあと餃子屋さん(奢ってもらった。美味しかった)で私のこの解釈を従姉氏と彼氏氏に話したが、2人は一定の理解を示しつつ、素直には納得できないようだった。というのも、蚕(役名)が自らを切り裂く直前、彼女は閉じ込められていた棺桶のような箱を”破って”出てくる。この棺桶のような箱がカイコの繭のメタファーだとすると、それを破って出てきたということは自らの意思・力で孵化したということであり、ポジティブに解釈することも出来るのではないかという指摘であったように思う。
 うーむ、なかなか難しい。しかし率直に読み取るのならば、少なくともこの作品は「代理母出産」に対して批判的な立場なのだろうと思った。

令和5年10月30日 月曜日 
寝てたら終わった

 寝てたら終わった。

令和5年10月31日 火曜日 
ハロウィンは難易度が高い

 今日は、今までで一番ギターの練習をした。まだ上手には出来ないが、好きな曲たちを演奏し歌うのが純粋に楽しく、ここ数年はどこか離れ気味だったロックやポップスといった音楽ジャンルの良さを改めて実感した。自ら音を奏で、歌えることの良さ。HIPHOPやダンスミュージックには(ロックやポップスに比べれば)、乏しい要素である。
 練習を終えると左手の指先がことごとく青紫色だった。果たして大丈夫なのだろうか。あるいは、「指先が硬い」というギター奏者の称号を僕も手にすることが出来るのだろうか。

 そういえば、今日はハロウィンである。僕の私生活においては、今日も昨日も一昨日もその前も、特にハロウィンらしいことはなかった。クリスマスに比べて、ハロウィンというイベントは参加する難易度が高すぎるのではないかと僕は思っている。
 クリスマスにおいては、イルミネーションを見たり、クリスマスソングを聴いたり、ケーキを食べたりすれば「クリスマスらしいことをした」という感じがする。しかしハロウィンにおいては、コスプレをしたり、かぼちゃをくりぬいたり、いたずらを仄めかしつつお菓子を要求したりしなければならない。実行するハードルが高い。
 でも、様々な文化をなんでもかんでも取り入れ、取り敢えず楽しむというのが、まさに神道的なヤオヨロイズム、「日本人」然とした宗教的態度だと思わなくもない。来年はハロウィンを楽しめるだろうか。楽しみたい。ゲロカスに可愛い女装コスとかしたい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?