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雨が強く降り出した―6月24日を控えて

 正確には1969年6月22日、または23日の未明に、彼女が残した言葉である。生前最後に、自らの日記に記した、その最後の段落最初に記した言葉である。生への意欲を断ち切ろうとしていたと思しきあの刹那に聞こえていた雨音。それは彼岸への誘いを成す調べとなったのだろうか。彼女が死んだその日に雨はやんでいたというが、やんだ時には、もう己はこの世から消えるだろうと予覚していたのだろうか。
 今、私のいる部屋の、雨戸を締め切った窓の外から、雨音がする。今日は6月22日または23日ではない。しかし同じ6月で、ほぼ同じ時日じゃないかと無理やりこじつける。毎年この時期になると、私はどうしても彼女のことを思う。あの日の京都に降る雨は、「高野悦子「ニ十歳の原点」案内」というホームページ―以下高野HPと略―によると、やや強い程度であったらしいが、雨なんて同じ地域の中でもずいぶんと差が出るものである。ひょっとしたら彼女の下宿周辺は、私が今聞いているのと同じ、土砂降りの雨音が響いていたのかもしれない。
 1969年6月24日火曜日。天気は一転して晴れていて、星まで見えたという。たった独りで貨物用の蒸気機関車―電車ではなかった。当時はまだ蒸気機関車は走っていたのである―に身を投げた時の模様は、高野HPに詳しく検証されている。HPの叙述は淡々としているが、かえってそれが一層の凄みを帯びて当日の彼女の姿を描き出す。生と死の狭間にいた時は雨天。死した刹那は晴天。もはや生への希求を断ち切ったことを祝したかのような晴天とは、私には皮肉に見えてしまう。6月24日の未明がもし、雨天であったなら、それも土砂降りの雨であったなら、彼女は外に出ることはなかったのでは、いや、死の直前に相当の睡眠薬を飲んでいたらしいから、それが原因で結局死していたかもしれない、などと下らぬ思考に誘われる。いずれにせよ、彼女は死んだのである。身勝手な死を、自ら選んだのである。
 人間の死は生き残った者、特に身内の者には迷惑な行為である。遺体の片づけをし葬式をしないといけない、役所に死亡届を出さないといけない、方々にこの人は死にましたと連絡をしないといけない、お悔やみの香典が届いたら、それへの対応をしないといけない、遺産を有していたら、その分与のことまでしないといけない、それが終わり、年度末になったら準確定申告を役所に提出しないといけない、初七日が、1年が経ったら今度は法要をしないといけない・・・・。残された者にとってはやらなければいけないことが山の如くあるのである。しかも多くの身内は、当人が死を迎えるまでに介護とかなんやらで労苦と骨折りに苛まれている、彼女のようにいきなり死した場合でも、身内はその衝撃を受け混乱し落ち込んだ、そのそれぞれの心的状態で諸々の後処理をしないといけないのである。いや、死んでありがとうなんて嬉しく思っている身内もいるだろうが、それであっても諸々の後処理は、なのである。
 彼女はこんなことをあの刹那に考えてはいなかっただろう。考えていたら彼女のことである、いちいちノートに記していただろう。実際、この少し前の日記に、自分が死んだらこのノートは、という文言があるから、それまで意識はしていたのだろう。だがこの時はそんなものは吹っ飛んでいたのでは、いや、考えていたとしても自死することは罪な行為であるとは露ほども考えなかっただろう。考えていないからこそ、実行できたのである。残された遺族を思うにつれ、やはり身勝手なことをしてのけたと思う。彼女の残した言葉には不滅の輝きがある。その価値を認識したうえで、彼女のしでかしたことは非難されるべきものだ。だがこれもまた皮肉である。非難されるべき行為をやったことで、彼女は未来に、おそらくは末代まで残る言葉を残したのだから。
 人間は死ぬものである。つまり必ず残される者-身内の者、身内がいなければ赤の他人だが、なんにせよ残される者―に迷惑をかけるのである。そのうえいきなり、それこそ自ら死すことは大変に迷惑な行為である。死ぬのであればある程度の準備くらいしておけ、準備なしでやられては周りがたまらぬ。これは決して死することを肯定しているのではない。死するとは大変なことなのである。だからこそ、残された者は深慮をもって計らねばなるまい。死せる者はそれを思い、後顧の憂いなくせねばなるまい。
 ・・・・と、55年前に死した彼女にこんなことを言ったって何にも変わらない。私の中でどこまでもグルグル巡っているだけだ。1969年6月24日に彼女は自死し、彼女の遺族の計らいと出版者によって彼女が記した言葉は世に出、広く今日に到るまで読み継がれるに至ったという事実は厳然として動くことはない。ここまで考えて、私はどうにもやるせなくなる。彼女の身勝手さとともに、もうひとつ、別の理由によって。
 彼女が、今の到るまでかようなほど世間の注目を浴び、残した言葉が読まれ、その生涯が検証されるまでになっているのは、①彼女が自らの言葉を相当量ノートに残したこと、②それを遺族とメディアが多分に戦略的な準備を持って公刊し得た―死の直後に彼女の実家があった栃木の同人誌に遺稿がまず発表され、その反響を後押しに出版社[1]から三分冊という形でそれぞれかなりの時間的間隔を置いて、つまり読者をある意味焦らす形をとって公刊された―こと、③その死が自死という劇的なありかたであったこと、④死した時の年齢がちょうどニ十歳というオトナー打算的なものの表象ともされる―と公的には認められつつもまだ幼さ・未熟さ―打算を拒絶しうるイノセントさの表象-を多分に内包しているとイメージされる、いわばどっちつかずの年齢であったこと、⑤彼女が死んだのが若者文化の象徴としてカタルシスと甘美さを持って語られる1960年代、その最後の年であったというこれもまた劇的なタイミングであったこと、⑥そして今述べた戦略的な出版のありかたの中に孕まれた、ニ十歳と1960年代を強調させようとする意図、これらの要素が絶妙なバランスをとって融合したからだろう。換言するならば、彼女の人気は父親に代表されるオトナの打算によって巧みに編み出されたものだったのである。身勝手な自死を遂げた彼女への、ある種の復讐として遺族はその遺稿を出版し―。もちろん公にしたのは遺族側の彼女への愛惜が根底にあるのだろうが、印税収入、父親の社会的地位の一層の顕現化とその上昇への期待もあっただろう。[2]
 私の解釈は歪んでいる、人でなしだと非難する向きもあるだろう。しかしたとえ非難されようとも、私は上の思考を止めることができないでいる。それが、私の心を一層暗くする。彼女の言葉を味わうという恩恵を得ていることの幸せ―と、あえて言おう!―を自覚しつつもそれを行為することで、彼女の心模様という楽屋裏へ臆面もなく侵入する罪悪感に板挟みになりながら、自死した彼女の身勝手さに対して、さらにその彼女の残した言葉を計算づくで公にした遺族の打算的行為―と、やはりあえて言おう―に対して、ともに憤りたくなる。この、アンビバレントな感情に引き裂かれたまま、どうにもできないまま、私は今年も6月24日を迎える。あれから55年。当時の私は1歳、もちろん彼女のことは全く知らない。



[1] 彼女の遺稿がまず地元の同人誌すなわちインディーから、次いで新潮社という大手出版社すなわちメジャーなフィールドから発表されたことに、あたかも数多くりかえされるロック・バンドの成り上がりヒストリーを想起してしまうのは、私だけだろうか。
[2] 『ニ十歳の原点』三部作が世に出たのは、父親の肩書が大きく与っており、その後父親が地元の町長にまでキャリアアップを成した要因の一端は『ニ十歳の原点』の父であったからであるとみなされるのも、無理はなかろう(高野HP、1969年1月2日⦅水⦆の項、参照)。