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焦燥

「やれやれ。相も変わらず、眉の間に皺を寄せて。もっとニコニコせえよ。こっちまで肩が凝っちまわあ」
 同じ学科に通う、Wがそう言って、私に近寄ってきた。今日最後の講義が終わって、どやどやと学生たちが一斉に教室を出ていく。私も出ようとしたところを、彼と遭遇したのである。
「おまえ、これ取ってたんだな。ラッキー。いやなんせ、俺単位やべえんだよ。自由選択1つも取れてねえからさ。今年中に12単位とっとかねえと、来年4年だろ?ったく!うちの学科は必修ばっかでさあ。取りたくもねえ科目ばっかりありやがる。もっと自由に選ばせてくれてもよさそうなもんじゃねえかよ、なあ?」
 Wは、頼んでもいないのに勝手に喋って、勝手にウンウンとうなずき、納得している。こういうところは、あのSとそっくりだ。
「そっちの、いつものツレは?アレはこの講義は取ってないのか?」私が聞くと、
「ああ、あいつな。あいつは取ってないんだよ。取れって言ったのに必修じゃねえからってよ。ケチだよなあ」そう言うと、Wはクククと笑って、
「あいつは今頃、いそいそと○○のコンサートだぜ。武道館だってよ。大ファンなんだってよ。あの顔で。がははは!」今度は口を大きく開けて大笑いをした。下品な笑い方をしやがる。誰それのファンでいるのと、顔付がどうのなんて、どうでもいいことではないか。
「でも、お前がいてくれて、安心だ。これで万が一にも保証が効くぜ。だがよ、もうおまえ、自由選択全部取ったって聞いたけど、なんでこれ取ったんだ?」
「同じ授業料払うなら、少しでもたくさん講義を聴いた方が得だろう」
「は!おみそれしました。さすがだねえ。でも、つまんない講義じゃないかい?」
「まあ、面白くはない喋りだな。ひょっとしたら、この講義は放り出すかもな」
「おいおい。それは困るよ。それじゃ俺の計画は総崩れだよ。むらっけ起こさないでくれよ」
「おまえさんのために、講義を履修しているわけじゃねえぜ」
「それはそうだ。そうなんだが、そう言ってもらっては面白くないじゃないか」
   Wはやはり下卑た口調で一方的に語りかけてくる。どこまでも品性のない奴だ。SといいWといい、私の周りにいる奴等はどうにも人間性に深刻な欠陥を有している者が多い。私自身も欠陥だらけなゆえにそうした人間が集まってくるのか、それとも我が大学がそもそも品性下劣な人間の巣窟なのか。おそらく、その両方なのだろう。
「面白くなくたってかまわんさ。俺が面白くなくてやめたって、それは俺の勝手だろ」
「そう言いなさんな。夏の試験が全部終わったら、又奢ってやるから」
「又、って、奢ってもらった記憶なんてないけどな」
「そうだっけ?まあいいさ。でよ、おまえインドに行くんだろ?よく行く気になったなあ。俺なんて、そんなことをしようなんて気合も入らんよ」
「俺だって、最初は試験受ける気はなかったよ。たまたま今年は倍率が低かったんだろう」
「おまえの他に誰が行くんだ?」
「誰だったかな。もう1人決まったことは知ってるが・・・・。別の語学の奴だよ」
「ドイツ語でないことは確かだ。誰もそんなこと言ってねえから」
「そっちはドイツ語なんだよな。羨ましい話だ」
「いやいや。ドイツ語は難しいぜ。まじめんどくせえ。出席も厳しいし、ゴマすりも通じねえし。あのセンコー、うぜえよ。まったくなあ。俺たちの学科だけ、なんで3年になっても第2外語は必修なんだ?やってらんねえ」
「確かに」この点においてだけは、私とWの意見は完全に一致していたのであった。
「おまえんとこの、Sか。あいつはどうなのさ。インド行の事で、なんかアドバイスしてくれんの?」
「何にもさ。講義の時に、人の事、罵り悪罵するだけさ」
「だろうなあ」Wも2年の時、自由選択でSの講義を履修したのだが、余りにも学生に対し怒鳴り、かつ喚くのに終始してうんざりし、早々に取るのをやめてしまったから、Sの人となりは知っていた。
「おまえも災難だな。あいつが第2外語で。でも、あいつのお陰でインドに行けるんだから、よかったんじゃねえの?」
「どう解釈すべきかね」
「そんで、旅のスケジュール。どこ行くのさ?」
「・・・・」
 問題はそこである。インド行は決まったが、具体的にどこで何をするか、全く決められないでいた。ガイドブックを見ながらあれもこれもと思いつくのだが、そのどれもがアイデアを煮詰められなくて、うやむやのままになってしまっていた。
「何にせよ、俺の方こそ羨ましい話だ。土産はいらんぜ。旅の話だけ、たっぷり聞かせてくれればな」そう言うと、Wはひょこひょこ歩いて行ってしまった。
 旅のスケジュール。この時の私の、最大の課題であった。インドでは英語が通じる。私の英語は笑ってしまうほどブロークンでボキャブラリーも酷いものがあったが、現地に行ってしまえばどうにかなる、ヒンディー語はさらに酷かったが、それでもまるきりダメなわけではない。語学よりも、どこにいつ行くか、何をするかが決まらなければ、どうしようもない。私は一つ所をぐるぐる回ってばかりであった。試験の時のレポートでは、大見栄切った文言を書くことができたのに。どこまでも曖昧模糊としていて、なるべくたくさんの所を見て回ろう、じゃ、どこに行く?と、ここで止まってしまうのだった。
 千裁一遇の、インド行のチャンス。いや我が家を離れるチャンス。バイト先を離れるチャンス。離れる以上、いや離れるからこそ、何かをしなければならない。しかるに何をすればいいのか。私の中を、焦燥ばかりが募っていった。
「1つでいいい。何かベースになるモノがあればなあ」私は、インドの地図を広げて眺めた。
 旅に行くなら、まずは首都だろう。そこに少しとどまってその国の空気に慣れて、それから他所へ移動する。首都には何日いようか。あんまり長くいたらどうせ都会だ、物価も高い。カネもなくなってしまう。せいぜい2日かそこらだ。そこからさて次は、だ・・・・。いつもここから、私の思考は散り散りになった。ああだこうだパズルをアタマの中で組み立てては壊し、その内ヤーメタと放り出し全く別の本を読み始めてしまうのであった。気が付くと、もうその日はオシマイである。これならまだましだったかもしれない。時には何もしないで2日も3日も放りっぱなしなこともあった。怠け者もいいところである。
 5月も終わりの、ヒンディー語の講義の時である。いつものように、学生と教師のふくれっ面と罵倒の遊戯が終わってから、Sは突然、思い出したかのように「あー、あのな」と私に言ってきた。
「今度の研修な。一応研修だから、ヒンディー語の講義、向こうでもやるように計らってやったから」
「は?」
 前回も少し記したが、夏季の語学研修は語学担当教師の裁量で、現地で語学の講義をしたりしなかったりした。私が話を聞いた、前年研修を受けた先輩には語学の講義はなかったが、担当教師の先輩にあたる人が現地に滞在しており、その家に数週間泊めてもらい、現地で生活するノウハウを伝授してもらったという。私には、そのようなホームステイの話など、まるでSからされておらず、宿から何までゼロから計画を立てなければならないと思っていたのである。むしろその方が自分の思いのままに出来て喜ばしいとすら思っていたくらいである。しかしその計画作りはまるで進捗していないのは今、記したとおりである。
(今頃になって。だったら、試験に受かったときに、速攻で言ってくれよ)私は心の中で悪態をついた。しかし、計画立ての取っ掛かりはできた。講義は煩わしいが、つまりはその間1つ場所に滞在し、そこから今後どこで何をするか細かくプランが練れるというわけである。何をしていいのかわからぬなら、現地でじっくり考えればよい。その足場ができるのはありがたいとも言える。
 そんな私の心の中などまるで察しようとしないSは、いつもの如く勝手に喋りまくった。
「でな、場所はバナーラスだ。後で地図を見て確認しろ。あそこにあるバナーラス・ヒンドゥー大学で教授を務めておられたアシムル先生の元で習うのだ。先生はインド史研究で俺も若い頃お世話になった方だ。くれぐれも粗相のないようにな。宿泊先は・・・・あそこにはたくさん安い宿がある。ダメだぞ。アシムルさんの家は。公私はわきまえないと」Sは私が何も言っていないのに、私の寝起きする場所の事に勝手に言及しつつ、どこの宿がいいとかは、まるで教えないのであった。
(言われなくても、寝起きの場所位、自分で探すさ)私が心の内でつぶやいていると、
「ほれ。これ先生の家の住所。大学から、そうさな。リキシャーで5分かそこらだ」と、住所を書いた紙きれを渡された。Sの筆跡による、汚い走り書きのメモだ。
「ここで3週間講義を受けろ。もう先方は承諾済みだ。だがな。おまえからも手紙は書いとけよ」そう言うと、Sは「あーあ―疲れたわい。やる気のない学生相手だと」とかなんとかほざきつつ、出て行った。
 私はメモ書きをじっと見た。そこには英語でVARANASI , INDIAという文字が、どうにか読み取れた。
「どうせ渡してくれるなら、もっと判読しやすい文字で書いてくれねえかなあ」
 さて、手紙か。英文で手紙なんぞ、書いたことはない。手本はどうすべきであろうか。仕方ない。大学で前年習ったビジネス・レターの例文を、ほぼそっくりそのまま引き写すことにした。翌朝、例文を書き写した紙をもって登校の途上の電車の中でいい加減にいじくり直し、その日の講義が終わってからそそくさと清書して投函してやった。我ながらせっかちである。果たして英文の内容が先方に通じたのか、全く心もとなかったが、早いうちにやっておけば機嫌も損ねることはあるまいと思った。
 焦っていたのである。内容の出来不出来は二の次なのであった。何をするにも早く片付けないと、気が済まなかった。そのくせ、旅のプランニングはノロノロしていたのだから矛盾しているが、できないから余計に焦り、焦るから余計にできなくなる、その悪循環をこれ以上味わうのが恐ろしかったのである。
 読者はここで、私がどんな内容の手紙を書いたのかとお思いであろう。悲しむべきことに、手紙の下書きも、参考にした例文の載った本も、とっくに散逸してしまっている。手紙に関するばかりではない。インドに出発する間何をしたのか、それを証明する記録が、ほぼ全く残っていないのである。あの後、アシムル先生から返書をいただいたはずだが、それも失われてしまっている。今、こうして書き記しつつ、もっと気を付けて資料などを保存するように努力していればと、忸怩たる思いがある。先生からの返書の内容も、私の中では幽玄な、濃い靄のかかった消え入りそうな記憶の彼方にふわふわたなびいていて、正確にここで伝えることができない。ただ、綺麗な英語の筆跡で「手紙をありがとう。貴君が来るのを楽しみに待つ」といった内容であったと言えるだけである。だから出発までの日々は、私の呆けたアタマの中にある、極めて危なっかしい記憶を頼りにするしかない。
 ところで、私の英語力を参考までに述べておくが、中学の、最初の中間試験の点数は100点満点中59点である。記憶力の悪い私がよく憶えていると我ながら思うが、他の科目と違い、中学に入って初めて接する英語にそれなりに気合を入れて臨んだのがこの点数であったという失望ゆえに、憶えているのであろう。以来、英語への情熱は一気に失せ、中学から高校にかけて、英語の成績は常に下から数えた方が便利であった。高校1年の夏休みには補講を義務付けられたほどである。それが2年生になっていきなりクラスでトップの点数を取るようになったのは、自分でも解せない。その証拠に3年生の時、大学入試の前に教師に「おまえの学力ではたとえ試験に受かったとしても、相当大学では苦労しそうだな」と言われたのである。そんな案配であったから、おそらくアシムル先生への手紙の文章は、お粗末極まりない内容であったに違いない。それをそそくさと、誰にも見せずに送ってしまったのだから、破廉恥と言うしかない。
 ともかくも、インドでの活動拠点はバナーラス―今日、一般的にはヴァ―ラーナシ―とする方が通りが良いのかもしれないが、ここでは私にとってなじみの深いバナーラスという表記にする―に決まった。
「まずは、予習しておかないと」私は、『地球の歩き方』の、バナーラスのページを開いた。