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私の大学時代事始め

   今はどこの大学でもネットのホームページがあって、大学に関する情報をわんさか伝えてくれる。私の大学にもホームページが当然のようにある。講義一覧や教職員のプロフィールがこまごまと載っている。食堂やら図書館などの施設についての説明も動画付きで実に細かい。なによりそうした施設の映像やら写真やらが実に綺麗で、まるでどこかのアミューズメント・パークの如きであり、軽い眩暈を起こしたほどであった。
「あのころとはまるで違う・・・・」
   私は、なんだか自分が浦島太郎になったような気分に陥っていた。
   すごい講義の種類だなあ。ホームページを見ていて、つくづく感じるのはこれである。一日の講義のコマ数は、いくつになるのであろうか。私の時代では一日に受講できる講義数は,どんなに多くても五コマだったはずである。こんなにたくさんの講義数では、五コマではとても足りないであろう。講義以外にも、この日にはこういうイベントがあって、やれ英語のTOEICはどうだとか、この日にはこういう講座があってとか・・・・。情報が多いというのは結構なことなのであろうが、あんまり過多なのもどうなのだろう。今日はこれ、明日はこれと、次から次へと手を変え品を変え与えられては、じっくり腰を据えてことにあたることができなくなりはしないであろうか。今の世の中、そんなノンビリとはしていられないのだよ、と識者は宣うのだろうが、そこをあえて、せっかくのモラトリウムを得る特権を与えられた若い人にはせわしくモノを与え押し付けるのは避けた方が・・・・とろくに大学事情もわからぬジジイは無責任にほざくのである。おっと、今回は今の大学批判をするつもりではなかったのに、あらぬところに話が行ってしまった。
    ホームページを見ながら、私は自らの大学生活をつらつら考えた。前にも大学生活の一断面を書き留めてみたけれど、まだ自分の中では不十分であることに気付いた。今回はその事始め。入学当時の事を振り返って見たくなったのである。ただ、これから私が述べようとすることは、何分にもほぼ40年という年月が経っており、私の記憶違いが多々あるであろうということである。また、内容によっては類が及ぶこともありうると考え、多少なりともバイアスをかけてある箇所もある。その点はご寛恕を願いたい。
    改めて、冒頭の心持に、私は立ち戻る。「あのころとはまるで違う」・・・・

   私が現役の大学生であった80年代、我が大学の校舎はその大半が、仲間内ではスラムと呼ばれていたほどの穢い、老朽化したコンクリート建築であった。トイレにはいつも消毒液のキツイ匂いが漂っていて、入るのにちょっと勇を鼓す必要があった。トイレ内にある洗面所の蛇口は締まりが悪くって、しょっちゅう水がちょろちょろ出っ放しになっていた。敷地内のちょうど真ん中1階にあったホールにはいつもタバコのにおいが充満していて、テーブルの上には1号缶の空き缶が無造作に置かれ、そこにはタバコの吸い殻がみっちり詰まっていた。テーブルはいつも食い散らかしたカップ麺や弁当のクズと煙草の灰が散らかっていて、そこを利用するのはサークルに入っている人間―私は常々、奴等を愚連隊と呼んでいた―が大半であり、サークルに入っていない学生や教職員、所謂、他所者(よそもの)と呼ばれた連中は利用してはいけないという暗黙の、かつ不条理な了解があった。ホールの片隅には軽食コーナーがあって、そこではカレーやうどんが売られていたが、どれも安いだけが取り柄の、不味いとしか言いようのない代物であった。それとは別に食堂もあるにはあったが、そのメニューも少なくて、これまた褒められた味ではなかった。味噌汁はやたら辛いだけで、具はワカメが申し訳程度に入っているだけであった。ところが食堂は常に混んでいた。利用するのはホールに年中たむろしている連中が大半であった。食堂の唯一の取り得は禁煙とされていたことであった。地下にあったのが理由であったのだろう。食堂の出入り口にはタバコのポイ捨てが常に何本もあった。品性のある真面目な学生はそういう場所にはいなかった。いるとすれば図書館か、空いている教室であった。といっても、その人数は極めて少なかったけれど。幸いなことに、大学の外にはうまい食べ物屋がけっこうあって、まともな連中は大学の食堂を利用しなくて済んだし、愚連隊はその手の店には顔を見せなかった。
    愚連隊の多くは学ランを着用していた。連中は常に学内では徒党を組んでいて、先輩と思しきものが通りかかると背筋を伸ばし敬礼するのである。他所者には歯牙にもかけない態度を前面に出し、ときには脅しをかけることもあった。例えば、トイレが満員になっていると、学ラン連中はドアをどんどん叩いて「おら速やかに出ろ、こらあ!」と中で力んでいる者にすごんでみせるのである。夜遅くになると、学ラン組は隊列を組んで、私の知らない、おそらくは大学に古くから伝わる応援歌を斉唱しながら練り歩いたりもする。
   さらに面倒なことにサークルに属しているのは、学ラン組だけではなかった。私服で他所者の中に紛れ込み、他所者の行動をチェックしている輩もいた。大学やサークルの悪口を言っている他所者は突然、サークル事務所に呼び出しを食らい、尋問されるのである。呼び出しが2回3回と続くとリンチに発展するケースもあった。大学側は、主体はあくまでも学生側にあるからと、全く見て見ぬふりをした。まさにどこかのファシズム国家かヤクザ組織のようである。
    今になってみるとわかるが、あの大学の中では一種の共同体―ムラ社会と言い換えた方が良いかもしれない―が形成されていて、そこでしか通用しない掟や行動規範が浸透していた。共同体の成員ではない、外部の学生や教職員は否応なく弾き飛ばされる。学生ホールや食堂は、もちろん法的かつ公的には自由に利用できるのに、入っていくことが許されないという精神的雰囲気。大塚久雄が『共同体の基礎理論』で描いた世界が、80年代に到ってもなお、日本の恐ろしく小さな片隅で生きていたことを、私は眉を八の字にしながら思い出す。
   それでいながら、大学の講義は変に右か左に偏ってはいなかった。例えば経済学は、ケインズ経済学の研究者も、マルクス経済学の研究者も、さらには(新)古典派(以前の)経済学の研究者もいて、それぞれが講義を持っていた。こんな大学は珍しいそうである。当時の総長は、新任の教師には常に「学生には誠実に教えてやってもらいたい」とだけ訓示していたと聞く。学問上はリベラルであったのに、学生への実生活面でのケアに関しては、かくのごとくずさんであった我が大学に対して、私は今なお、複雑な感情を抱かざるを得ない。
   幸いなことに食べ物屋に事欠かなかったと記したが、もう一つ幸いなことがあった。それはこうしたサークルに、大半の学生が加入せずに済んでいたことである。サークルへの加入勧誘―オルグと言われていた―は、特に新学期の4月には新入生を対象に猛烈に行なわれ、拉致まがいのことも公然となされたが、大概の学生はどうにかこうにか逃げ延びた。一部の者は逃げられず、そのままサークルの一員となった。一部の者は耐えきれずサークルを辞め、大学まで辞めた。極めて少数の者ははなから突っぱね、恫喝する相手にもひるまずに追っ払った。サークルの連中に、全ての学生をコンプリート・コントロールするだけの能力は流石になかったのである。
    まともな少数の学生が通った図書館はどうであったのかというと、その蔵書は充実というにはほど遠く、事務体制もまともに機能していなかった。ゼミで必要とされた書物がまるで足りないことがわかって、学生である私が発注手配をする羽目になったこともあった。ひとり真面目な人が勤めていたのだが、勤務環境が余りに劣悪であったのであろう辞めてしまい、それなのに人員補充もせず、おかげで蔵書の管理は乱れるばかりであった。一度、私が借りていた本を―たしか岩波から出ていた『内田義彦著作集』の一巻だったと記憶しているが―、先の人とは別の事務員が顔を引きつらせて「ないない!」とわめき、図書館長が真っ赤になって事務員を叱りつけていたので、私が「その本ならお借りしていますが」と言い、2人はあっけに取られていたことがあった。かようなテイタラクであったから、17世紀末から18世紀初めにかけて活躍したイギリス官僚が著した著作の、当時公刊された本そのものが蔵書中に紛れていたことが明らかになって学内の一部でちょっとした騒ぎになったとき、こんな図書館に何故この本がと、不思議でならなかったものである。後になって、大学の歴史だけはやたら古く、ごく初期にはそれなりに名の通った学者先生も何人か奉職していて、先の本もその当時に入手したのであろうということが判ったのだけれど。
    穢いばかりの建物の中にあって唯一、おそらくは草創期からあったのであろうレンガ造りの小さな洒落た校舎が一棟だけあった。ところがこちらの建物も保全管理がなおざりになっていて、あちこちひび割れ崩れ、早晩取り壊しをと囁かれていた。もっと早くにリノベーションしていれば、今頃大学の格ははるかに上がったと思うのだが、残念ながら先を見据える視点が、当時の大学関係者にはなかったように思える。
   おそらくは、当時の経営陣は一掃されて、現在の大学は健全な人事になっているのだろうと信じたい。少なくとも表向きには洗練された、真っ当な大学になっている。私が通っていた当時の痕跡は、もうどこにもない。寂しさは感じない。むしろ、当時を思い出させるものが残っていたとしたら、私自身はウンザリし、忌々しくなるであろう。
   そう。当時の大学生活に、私の心はささくれ立っていた。穢い校舎。品性のない学生に教職員。こんなところさっさとバイバイしたいとすら思っていたときもある。それが、卒業して数十年経って大学時代を振り返るとき、どこか甘美なトーンに支配されている自分に気付く。なぜ私の心はこうも変わったのであろう。

   大学に入った当初、特段どの学問を専心してやっていこうという心算はなかった。ただ漠然と、歴史をやりたいと思っていただけであった。日本史なのか、西洋史なのか、古代なのか中世なのかは、まるで特定付けていなかった。所属する学部を決めたのも、最初にここにしようかと思った学部はより難易度が高くて怖気付き、一番難易度の低そうなところにした、という情けない理由によるのである。そのくせ学部のうち、より募集人数のはるかに多く、つまり難易度のさらに低い第1学科ではなく、もう一つの、募集人員の少ない第2学科にしたのは、他の有象無象と同じところにいたくはないがゆえ、というのだから、ある種矛盾していたし、ずいぶんと捻くれてもいたのである。学部学科、どんな学問をやるのかは、まるっきり考えないで決めた。ずいぶんとレベルの低い大学1年生であったというわけである。
    私の所属していた学部は一般教養科目のうち、経済学は必修とされていた。必修ということは、多くの学生が履修しなければならないわけで、大学の方でも経済学には多くのコマ数が用意され、担当教師も何人かいた。学生は時間割を見て、他の必修科目と付け合わせながら、どの時間の経済学を履修しようかとなるわけである。そして、どうせ単位を取るならなるべく楽に単位を取れる教師を、となるのは自然の摂理である。
     当時の我が大学では、各教師の専門とか、教師がどんな経歴であったとか、前もって全く教えてくれなかった。講義要綱なる小冊子は入学時に配布されていたけれども、それですら薄っぺらなもので、説明が全く書かれていない講義もたくさんあった。つまりその講義には講義名と教師の名前しか書かれていなかったのであり、お粗末としか言いようのない内容なのであった。だから学生側は新年度最初の講義に出るまでは、その講義の内容が各学生には判定が付かないと大学側は判断し、これではあんまりだろうということで、後に教員紹介とかいう冊子を配布するようになり、さらには講義要綱もより丁寧な作りになっていったのであるが、それは私が卒業して何年も経ってからのことである。しかし、冊子や情報が充実しようとしなかろうと、単位のとりやすい科目か否かは、そういった表面的な情報には盛り込まれないのは自明のことである。たいがいの(?)学生にとっては、冊子があろうがなかろうがどうでもいいのであった。自分が楽をして単位がとれれば、問題がなかったのであって、講義要綱などは一部の勉強熱心な学生を除いてはどうせ誰もまともに読もうとはしなかったし、履修要綱は単位をとるのに確認が必要ということで、卒業まで捨てずに取っておくというだけであった。
   では学生側はどうやって楽できる教師なり講義をかぎつけたのか。それは学生側独自のネットワークが昔から一種の伝統として発達していたわけである。それは、あの愚連隊組織が長年月を経てつくり上げたネットワークであったのだから、学生側も100%彼らを悪者にはできなかったのである。愚連隊側もそれがわかっていたから、新入生を強引に自分たちのテリトリーに誘い込もうとしたわけである。その格好の場が、今から触れる旅行なのであった。
    今はどうしているのか、大学とはトンと縁のない生活を送っているからわからぬが、全新入生は入学式の翌日から一泊二日で旅行へと駆り出された。その年の全1年生が、である。民族大移動かと錯覚を起こしそうな光景が現出するのである。我が大学での旅行場所は毎年同じであったかわからないが、私の代は前年や翌年と同じ場所であった。この旅行で、大学側は学生同士の親睦と各学部の基本的な学的カリキュラムの何たるかを学生側に教え込むことを目的としていた。というのは建前で、実質的には、愚連隊(=サークル)への勧誘すなわちオルグが真の目的なのであった。オルグをするのは当然愚連隊に所属する上級生である。旅行には数十人の上級生が同行したが、いずれも何らかの愚連隊部員なのであった。このオルグについては本稿のテーマではないからこれ以上は触れない。述べておきたいのは、オルグの副産物が、履修しやすい講義や教師の情報がもたらされる、ということだったのである。
    私が割り当てられた部屋の担当であったその上級生は、上記のようなやくざマガイな行為をしない、ごく紳士的な人で、その晩、新入生の集まっている部屋に入ると、「これは教師連中には内緒な」と前置きして、単位の取りやすい教師、めんどうくさい教師をこまごまと伝授してくれた。それは懇切丁寧なもので、新入生は皆、彼に感謝したのであった。上級生曰く、経済学の教師の中でも一番なのはNという教授であった。
「こいつは楽勝だよ。講義の出席は取らないし、ノートもいらないよ。試験なんかテキトーなこと書いとけば落とすことはないから」その場にいた多くの学生が、その講義を履修したのは言うまでもない。しかし、問題があった。学部によっては、Nの講義の取れない学生もいた。他の必修と被ってしまうのである。そして悲しや。私がその不運な学生に属していたことを、旅行から帰り、履修届を出すときに知ることになったのだが、この時はまるで知る由もなく、単純に1科目分単位を取るのが楽できると喜んだのであった。ところで上級生はNを指摘した後、別の教師の名前を時間割から見つけ出した。火曜日の講義に記されていたその教授の名前を指さし、彼は足下にこう言い放った。
「Kか。こいつはだめだ。やめたほうがいい」
    新入生たちはいっせいに、火曜の1限目に×印をつけた。もちろん私もである。こうして一通りの指南が終わると、先輩は自分の所属するサークルの説明を始めたが、私は嫌でたまらず、そっと部屋を抜け出したのであった。大部屋であったのが幸いし、私は捕まらずに抜け出せた。
   部屋の外には、2,3人新入生と思しき者たちがいた。「もしかして、君も?」そのうちの1人が話しかけてきた。やはり勧誘にあったらしく、こっそり抜け出してきたという。
「嫌になっちゃうよな。せっかく伸び伸びやれると思ったら、これじゃ囚人だぜ」と、話しかけてきた彼が忌々し気に続けた。
「けど、履修のことでいい情報は得たよ」私が答えると、
「まあね。けどさ。大学なんてたいがいの講義は上手くいくって、俺の叔父貴が言ってたよ。上を見なければって。大学の方じゃ、落第生が増えたら人員過剰でやっていられないから、適当な所で卒業させちゃうんだってさ。あんまり怠けていたら、そりゃやばいけど。ま、そこはさ」そういって、彼はにやりとした。
   それから後のことは、まるで記憶にない。いや、その前、履修のことで御指南を受けた以外の記憶も全くないのである。これと言った出来事がなかったからであろう。あの時一緒に喋った男の顔も名前も、まるで憶えていない。
   旅行が終わって後、履修届を提出する際、私は経済学のコマを、火曜の1限目に取らざるを得なくなったことを知った。
「クソだ・・・・」
   入学直後、卒業までに必要な単位数の多さに恐怖を感じた私は、ならば最初の1年間でなるべくたくさんの単位を取ってしまえ、一般教養なんぞ必要な単位をこの1年間で全部取ってしまえと決めたのである。無理をしなくても、1・2年のうちに取ってしまえば問題にはならないのだが―いや厳密にいえば、卒業までに取れればよいのだが、3,4年に持ち込むと学務課の一部の連中が、年度初めの履修届提出時に厭味ったらしいことを言ってきたものである。「卒業、大丈夫?」などと。余計なお世話なのだが、こんなことをほざくなら、愚連隊をどうにかできなかったのであろうかと思ったものだ―、4年間の総単位数にひたすら恐怖した私は、1年のうちに一般教養を全部取らねば気が済まなかった。
   どうあがいても、経済学の講義は、あのKという名の教師でなければならない時間割となった。私はため息を一反もつき、しかたない、この講義は真面目に出席しよう、そうすれば単位だけはくれるだろう、いやそう願いたいと観念したのであった。
   経済学の講義は火曜日の朝9時始業の1限目であった。朝一番の講義はいつも人気のないものである。つまり出席者は少ないのである。大学生たる者、前の晩はバイトや遊びで夜更かしをする、次の日は大体寝坊をして、お日様が高くなったころに起きだし、ああ講義だ、今日はさぼるかどうするかと、布団の中でむずむずするのが不変のルーティンなのである。しかるにこれは必修である。落とすことの出来ない講義である。加えて朝1限である。多くの意味で難易度が高いのである。呆けた頭で無理やり布団からはいずり出て、身支度もいい加減に済ませ、大学に向かった。
    寝坊していたにも関わらず、私はこの日、始業よりも30分は早く着いた。「ち、もっと寝ていればよかったわい」とつぶやきつつ、暇なので文庫本を読んでいるうちに9時になった。見渡すと、私の他には1人か2人しか学生がいない。やはり1限目の講義は人気がないのである。さらには担当教授の不評が広まっていたこともあったろう。他の学生を見ると、みな愚連隊関係者ではなさそうである。もちろん学ランはいない。
   と、始業のベルが鳴ってすぐ、一人の男が足早にやってきた。
   紺の背広姿の男はさっと壇上に上がり、あたりを見渡した。その表情からは、何も読み取れない。するといきなり背広の男は黒板の方を向き、チョークをもって、ぐるぐる渦巻きとでもいおうか、スプリングのような文様を、黒板一杯に書きだしたのである。
(なんだこりゃ。大学まで来て、幼児のお絵かきか?)理解不能な行為に戸惑っていると、背広は再度こちらに振り返り、マイクも使わずにしゃべり出した。マイクとわざわざ記したのは、ここが一般の講義に使う大教室であって、大概、教師はマイクを使ってしゃべるのである。そうしないとなかなか声が聴き取れないくらい、広い教室だったわけである。しかし、このときマイクを使わないでもはっきりその声が聴き取れたのは、それだけ出席している学生が少なかったからであろう。
「この渦巻。これは言ってみれば私の講義の流れです」そう言うと、男は黒板けしで、チョークの線を1か所、さっと消した。
「私の講義は全てが密接に結び合っています。あいだに1回でも休むと、この線のように切れてしまって、前後の内容がわからなくなり、混乱に陥ります。ですから、講義は休まないでいただきたい」
   へー、面白い比喩を使うもんだなと、感心していると、男はさらに続けた。
「ですが、出席は取りません。いちいち出席を取るのは事務的にめんどうくさいですし、何よりも講義は、学生が自発的に行為するものです。出席は強制されるべきものではありません。強制しなくても、心ある学生なら、毎回出てくるでしょう。そして価値ある講義なら、出席を取らなくても、自然に学生は集まってくるものです」
 おそるべき自信である。私は驚いた。
「経済学はまだかれこれまだ300年かそこらの歴史しかありません。同じ学問でも哲学のように1000年、2000年のある歴史に比べると、まだまだ新しい学問です。それゆえに、層の厚さという点では哲学に及ばない、あえて言うなら不安定な学問であり、これからの学問、そう言い直してもいいでしょう。しかし今の経済学はどうにも元気がありません。戦前に出たケインズの『一般理論』からは今一歩、ぱっとしない。経済学よしっかりしろ、そう言いたくもなります。その、新しい学問である経済学だからこそ、奇想天外な、先人が及びもつかない考えを、どんどん盛り込み刷新していく余地が大いに残されている学問であると私は考えています。そのダイナミックな学問の、いわば序論というべき部分をこの1年間で示せればというのがこの講義の大目標です」[1]
「諸君は、経済学とは抽象的な数式を駆使した、さぞかし無味乾燥な、退屈な学問だと思っているかもしれません。確かに、今の経済学関係の本は、退屈極まりない。開巻して1~2ページもするとウンザリして読み進められないものばかりです。特に現代の、日本の経済学の本はどうしようもなくつまらない。まともに読む気にならない。しかし、古典と称される本は違います。古典は、時間という審判を経て生き残ってきた作品です。古典は退屈を拒絶する力がある。経済学にも古典と称される作品があまたあります。諸君には、その古典を、これからの学生生活のうちに味読する機会を自ら得ていただきたい。経済学の古典を読み込めば、真の経済学が人間の営為を活写した、滋味豊かな世界であることを教えてくれるでしょう」
「私の講義は、先に述べたような、抽象的無味乾燥な数式は極力使いません。主眼に置きたいのは、人間の、知的活動を記録した学問としての経済学。経験科学としての、歴史的存在としての経済学を知らしめることです。講義では積極的に先人の業績を引用していくつもりです。諸君は高校の教科書でアダム・スミスの名を読んだことがあるでしょう。いわば経済学の始まりに位置する存在として教科書には書かれているでしょう。しかし経済学の始まりはスミスだけではない。具体的には今後の講義でお話ししますが、経済学の生誕はスミスひとりの力によるものではないこと、これはこの講義の重要なエレメントになるでしょう」
 単細胞と言うしかないのだが、私は感動した。これが大学の講義なのかと思った。この講義なら、1年間出席する価値がある。真面目にやろうではないか。まだ何もわからないのに、漱石の『坊ちゃん』の主人公ように無鉄砲に、そう決めてしまった。
 K教授―当時はまだ助教授であった―との出会いであった。そして、卒業までの、良くも悪くも教授との、濃密な交流がここから紡がれることになったのである。



[1] この講義は1986年に行なわれた。つまりまだピケティは登場しておらず、ビットコインのような仮想通貨も話題になってはいなかった。