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赤い色は大嫌いです

   インドに到着して3日目に高熱を発してから、丸々一週間、ベッドに突っ伏してしまったのは、旅がいくら想定外の出来事が起こるものだと聞いてはいても、やはり情けないものであった。高熱は最初の二日でおさまった。ところが今度は酷い下痢になった。胃の中のものが全部なくなり水ばかりとなり、しまいにはそれが真っ赤な血となったのは、我ながらうろたえた。下痢は何度となく経験していたけれど、下血は初めての経験だったのである。間断なくトイレに駆け込み、真っ赤になった便器の下―当然、汲み取り式である―を覗く。
「赤い色は大嫌いです」
 遠藤ミチロウの歌の一節そのままの感情に支配され、すっかり嫌になってしまった。
   アシムル家に医者がいたのはこの点まことに幸運だった。先生の長男にしてダーニ君のご尊父が小児科医だったのである。
「インドに来たばかりで疲れがたまっていたんだろう。そんなときに屋台の揚げ物とは。旅慣れているのならともかく、無謀だよ」ご尊父からおしかりを受け、しょぼくれるしかなかった。
 処方された薬は、ご尊父曰く、かなり強力な下痢止めに止血剤であった。
「反動で便秘になるだろうが、まずは下痢と下血を止めないといけない。そうしないと、君の体はミイラになってしまうよ」と脅す。
 下血が止まるまで、固形物を摂ることは禁じられ、その間はラッシーだけを飲んで過ごすことになった。
 ラッシーは旅立つ直前に吉祥寺のインド料理屋で飲んだことがある。その時は「なんだか、カルピスと変わらんなあ」とだけ思っていたが、ここでのラッシーは感動的なまでに旨かった。下痢で心身ともすっかり弱っていたこともあったのだろうけれども、今思い起こしてみても、我が人生で旨いと思ったドリンクの№1である。その後もいろんなモノを飲んできたが、このときのラッシーを超えるドリンクには出会えていない。
   当然というべきか、下痢が治るまでヒンディー語の講義は行なわれることはなく、アシムル家の全員を右往左往させてしまったのは心苦しいばかりであった。さぞかしうんざりしているであろう、とんだお荷物を抱え込んでしまったのだからと、ひたすら落ち込んだ。それなのに、家の人たちは皆、親身になってくださったので、いよいよ恐縮した。何故、会ったばかりの、それこそどこの馬の骨ともわからぬ馬鹿な若造に親身になるのか。恐縮であると共に不思議でもあった。
「空港についたその日に空港にとどまったのは正しい選択だったが、その後の行動が強引すぎたようだね。まずはデリーのASHOK系のホテルに1泊してデリーの街でも眺めて疲れをとるべきだった。そういうホテルの食事なら、まず問題ないからね」ようやく起き上がれるようになった時、アシムル先生から説教を頂戴し、改めてかしこまって拝聴しつつ、礼を申し上げた。その折、さぞかし迷惑でしょうと言うと、アシムル先生はそれには答えず、
「私も昔、日本に行ったことがある。ずいぶん世話になったものだよ。日本のひとたちはものすごく気配りをするんだね。それに日本人は人をすごく信用するね。インドでは考えられないよ。衝撃だったが、感動的でもあった。もちろん、日本人にも酷い奴はいるさ。けど、私の周りの日本人は、皆、品格があるよ」と述べられた。
 日本人には品格があるだって?我が大学に集う連中を見たら、大いに失望するに違いない。ついでに言っておくと、我が両親に会ったら、やはり日本人への評価を改めるに違いなかろう。物事の評価は一概には言えないのは理屈ではわかってはいたつもりであったが、この先生の発言は、私を戸惑わせるに十分だった。
 私は一個の人間として扱われている。それも真っ当に。これは私のフィルターを通しての真っ当さではあるのだが。日本では粗末に扱われてきた私が、いわば余所者(よそもの)たるべき場所で真っ当に扱われている。しかも、他人は一切信用しない、騙し騙されて当然とされると聞かされて来たインド人の中で手厚く保護されている。もちろんインドに到着直後は見事にカネをふんだくられ、アシムル家に到着する段でもあわや、となったのだけれど。それも含めて、人との交わりにどう対処していけばいいのか。アタマの中は混乱するばかりになった。ナイーヴだなと思われるかもしれない。体調の悪さゆえとも言えるだろう。だから割り切ってしまえばなんてことはない。わかっている。けれどこの時は受け入れられなかった。
「なんだい。下痢はとまったんだろう。ためいきついて」言って来たのは、ダーニ君である。
「無理もないか。まだそうすぐには元通りにはならないね」ダーニ君はにこにこしている。その目はどこまでも屈託がない。くりくりした、その真っ黒な瞳。その奥に吸い込まれそうな圧迫を感じて、私は思わず目を伏せてしまった。
「ここにいるのは3週間だったね」私にかまいなく、ダーニ君は言葉を投げかけた。
「そうだね。けど、1週間を棒に振ってしまったから」私が目を合わせずに言うと、
「ヒンディー語のことかい」
 奥底ない所を打ち明けると、ヒンディー語の講義はどうでもよかった。日本にいるときもまるで勉強しなかったし、インドに来たのは一時でも日本から逃走するためであった。そしてインドに来た以上はこの土地の風物を味わってやろう、それくらいの気持ちしかなかったのである。だから、アシムル家で厚遇されることに罪の意識すら感じてしまったのであって、ヒンディー語の講義の事に話題が移ったとき、私はどう答えていいか返答に窮し黙るしかなかった。
「仕方ないことさ。気にするなよ。明日からは講義、大丈夫だろう?」
「・・・・ああ、まあ・・・・」
「じゃあ、飯も、もういいね」
 どこまでも、彼は私の中にある淀んだ部分に気付こうとしない。16歳。私の16歳の時はこんなにまっすぐじゃなかった。いつも物事を斜に眺めて悪意と皮肉でもってまぜっかえしてばかりいた。そうしないと自己の領分を踏み荒らされるばかりであったから。
(彼みたいに、曇りなく息ができたら、どんなに楽だっただろう!)アシムル家にいる間、私は何度となく思ったものだった。
 ヒンディー語の講義は、その翌日から始まった。ヒンディー語の配列は、基本的に日本語のそれと同じである。たとえば「これは本です」という言葉あるとすると、「これは」「本」「です」、このそれぞれの単語の意味が理解できれば、あとはそれらを日本語と同じに、並べればよいのである。
「うむ、基本はよくわかっているな」アシムル先生は褒めてくれたが、実のところはとても褒められたものではなかった。私に言わせれば、語学とは単語をたくさん憶えているかどうかにかかっている。文法なんてわからなくとも、単語さえわかれば、大体文章は理解できるのである。ヒアリングにしても、相手の喋っている単語の端々が理解できれば、言葉は通じるのである。問題は、その語彙力なのである。私の語彙力のなさは幼年時代から定評のあるところである。換言すれば、単語を記憶・暗記する能力が決定的に欠如しているのである。中学に入って初めて英語に接した時、周りの連中はその物珍しさから最初のうちは皆真面目に授業を受けていた。中学1年生の1学期最初の中間試験はどいつもこいつもいい点を取っていたが、私は59点であった。記憶力の悪い私がよく憶えているものだと感心するが、それは担当の英語教師が私をせせら笑って、「おまえはホント、覚えが悪いからな」と言いつつ、答案を返したことが深い憤りになって私の内に畳み込まれたからであったろう。以来、私は断固、他の教科と並んで真面目に英語を勉強しなくなった。中学を通じて私の英語の成績はメタメタであった。それなのにFランではあったが高校に浪人することなく入れたのだから、学校の成績はアテにならんなと私はいよいよ学校の授業に対して真面目に取り組まなくなった。こういう男であったから、アシムル先生に褒められるたびに、息が苦しくってたまらなかった。
 ヒンディー語の習熟の度合いは、ここでくだくだしく述べるまでもなかろう。アシムル先生だって本当はわかっていたに違いない。けれども先生は私を難じたりは決してしなかった。ひょっとしたらこいつはモノにならないと見切りをつけていたのかもしれないが、ぞんざいに扱われたことはなかった。バナーラス・ヒンドゥー大学と我が大学が提携校だったことは一度たりとてなかったのだから、私なんぞに講義をする義務なんてなかったのだし、ましてや家に住まわせる必然性もなかったのに、アシムル先生やその家族は友好的に接してくれたのである。もちろん、授業料や宿代は払った。しかしどう見ても、授業料や宿代を超える扱われ方だったと思えて仕方がないのである。
 ひょっとしたら我が大学、あるいはSは一再ならずアシムル先生、あるいはバナーラス・ヒンドゥー大学の世話になっているのではないか。たとえ提携校同士の間柄でなくても、これら三者間には密な交流があったのではないか。ある日、私は先生に、Sはこの家に住むことはなかったにしろ、例えばバナーラス・ヒンドゥー大学に足繁く通ったことがあったのではないか、そして、Sの後輩らがアシムル家を利用するようになったのではないかと聞いてみた所ところ、果たしてSは極めて若い頃、バナーラス・ヒンドゥー大学に留学していたという。
「彼もまだ若かったね。たぶん、君と同じくらいの年頃だった。大学を出た後も、今はもう廃業してしまった下宿屋に2年くらい住んでいたよ。大学からほど近い所だった。私の幼馴染の家だった」
 その下宿屋には、Sの後も度々、日本人の留学生が利用し、アシムル家にも教えを請いに訪れていたという事である。
「君の大学からも、インドに留学した人がいた。バナーラス・ヒンドゥー大学に転学した人もいたんだよ。これもずいぶん昔の事だ。下宿の人間が亡くなり、Sからも便りが来なくなって、ああもう日本からの留学生はよこさなくなったなと思っていたんだ。そこへ降って蒔いたように君の話が来たんだ・・・懐かしいよ」
 私は、Sがまだ学徒であった時分、どんな人となりであったのか、興味がわいた。あの傍若無人で人を人とも思わぬ男が、しおらしくアシムル先生の教えを聴いていたのだろうか。
「Sか」先生は、ちょっと話しにくそうであった。
「真面目な男だったよ。彼は、そう、シヴァのような、瞬間爆発的な男でもあった」
 先生は、それ以上余り、Sの事は話そうとしなかった。後々先生の息子さん―つまり小児科医でありダーニ君のご尊父―から聴く機会があったが、Sはインドでも日本人の留学生ともめることが度々あったらしい。自分の思いのままにならないと露骨に不機嫌になり、相手を排除するといったこともやらかしとも。
(やっぱりな)この10数年、我が大学からインドに行く人間がちっとも出てこないのも、当たり前と言えば当たり前なことを、Sはインドでもやっていたわけである。
 それなのに、何故今になって、さんざん手を焼かされたSの教え子であった私に対して、アシムル先生がこうも友好的で、しかも家族ぐるみの付き合いをするのか。自らが日本で美しい思い出を持ったのが大きなファクターだったのは間違いないにしても、それだけとも思えないのだった。
 ある日―もうすっかり下痢も治ったある夜―の夕飯前、あれは家族全員がそろっていた時であったが、藪から棒に「君は大学でなにを専攻しているのか」と聞かれたことがあった。聞いてきたのは誰であったろうか。先生であったのか、それともダーニ君のご尊父であったのか、全く記憶にない。さて専攻か。私はぐっと詰まった。私の所属する学科の必修科目を言えばそれが一番自然であっただろうが、それを億面なく言って聞かせるだけの、熱意ある勉強など到底してはいなかったから、どう答えていいか逡巡した。
「昨日読んでいたあの本」そう言ってきたのはダーニ君である。「あれが君の専攻じゃないのかい」
 その本とは、私のゼミで使っていたものであった。