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田舎(過去)をばかにするな―U.K.SUBS②

    私はパンクを、これまで喧伝されてきた「断絶」よりも、「継承」をより強く指向したムーヴメントだと述べてきたが、U.K.サブスもまた、それを極めて分かりやすいかたちで具現化させてきたバンドなのである。リーダーのチャーリー・ハーパーの年齢、そしてその遍歴がそれを雄弁に語っているけれども、ハーパーだけではない。サブスのギタリストとして、おそらく誰もが筆頭に挙げるであろうニッキー・ギャレットの、ギタリストとしての出発点はクラッシク・ギターであり、バッハを好んで弾いてきたこと、10代になって好んで聴いてきたのがブラック・サバスなどの70年代ハード・ロックとプログレであり、サブスに参加する前はプログレのバンドにいたことを本人は明言していて、現在はヘッダースレーベンというクラウトロック~プログレなバンドを率いてもいる。[1]パンクの紋切り型な部分ばかりに注目している者には、ギャレットの経歴は異様なものとして捉えられるかもしれないが、U.K.サブスの音楽性を、その取り組み方をつぶさに見ていくなら、それはごく自然なものなのである。彼らにとってパンク(・ロック)とは文字通りプログレッシヴ―革新的-(・ロック)なものなのである。そして、ここでの革新的とは、過去からの遺産を批判的に継承することによって可能となるものなのである。過去の遺産すなわち音楽を、単にコピーするという意味なのではない。革新的とは、過去を断絶させることを意味しない。継承という側面もあるのだ。そのことも、サブスの音楽や発言は知らしめるのである。
    例えばブルース。U.K.サブスのファースト・アルバム『アナザー・カインド・オブ・ブルース』は、タイトルからしてブルースの単語が盛り込まれ、ブルースと名の付くタイトルの曲が2曲もある。しかしアルバム・スリーヴのアートワークを見ても、ブルースを名乗っている2曲を聴いても、いわゆるブルース臭は漂ってこない。アルバムの他の曲を聴いてみると、ブルース・ハープを導入した曲はあるにはあるが、それですら世間一般的に流布されているブルース的な表現は見受けられない。あえてブルースの語を使うことで、さらにはブルースの常套楽器であるブルース・ハープを使うことで、彼らは単なるフォーマットとしてのブルースをなぞることを意識的に避けていると思われる。そしてそうした行為こそ、彼らにとってのブルースの、批判的継承なのである。まさしく「これだってブルースの在り方さ another kind of blues」というわけである。[2]
 デビュー当初のU.K.サブスは、その強烈なスピード感あふれる演奏でもって、80年代初頭に台頭したハードコア・パンクの呼び水として評価された。だが本人たちはスピード・ナンバーばかりをやるつもりは毛頭なく、むしろ80年代ハードコアの連中からは一定の距離を置こうとした。[3]スピード命な演奏に埋没することはなく、自分たちが影響を受け、とり入れてきた過去の音楽的遺産を止揚していこうとした。もちろん、パンク~ロックンロール初発の高揚感を損なうことなく、である。この成果がアルバム『ENDANGERED SPECIES』-以下、『絶滅危惧種』と直訳的表現で記す。理由は簡単である。英語を綴るのがめんどくさいからである!―なのである。聴き手への衝撃度の高さなら最初期のアルバムとなるのだろうが、ここにはされまでサブスが培ってきた経験を自らの表現へと止揚していく様がくっきり刻まれている。
 『絶滅危惧種』は多彩な音作りがされたアルバムである。ギャレットのルーツであるハード・ロックなイデオム、プログレ的な展開、ハードコア的なスピード・ナンバー、ハーパーの十八番なブルース・ハープをとり入れたブルース・ロック調。だがそれらはいずれも単なるコピーに墜してはいない。そこには常に批判性・批評性がある。『アナザー・カインド・オブ・ブルース』でのブルースへの視座と共通するものが、ここでも堅持されている。前作『DEMINISHED RESPONSIBILITY』―『責任軽減』とでも訳すればよいのか―の弛緩した作りとは対蹠的に、一定の緊張感もある。見事な出来栄えだと思う。
 彼らの批判的継承の精神は歌詞にもみられる。その象徴的な1曲が「ダウン・オン・ザ・ファーム」である。ガンズ・アンド・ザ・ローゼズが93年にアルバム『スパゲティ・インシデント』でカヴァーすることで、世界的にU.K.サブスが再評価される端緒となった曲なのだが、何故ガンズが取り上げたのか、歌詞を読んでみるとなるほどなあと思えて来るのである。ウィキペディアを覗くと、スラッシュは「楽しかったからやったのさ」と言っているようだが、それだけではあるまい。そこにある批判性・批評性が重層的に塗りこめられているのにガンズの連中も感応してのことだと思われるのだ。

Down On The Farm

All I need is some inspiration
Before I do somebody some harm
I feel just like a vegetable
Down here on the farm

Nobody comes to see me
Nobody's here to turn me on
I don't even have a lover
Down here on the farm

They told me to get healthy
They told me to get some sun

But boredom eats me like cancer
Down here on the farm

Drinking lemonade shandy
There's nothing here to do me harm
I'm like a fish out of water
Down here on the farm

I write a thousand letters
Till my fingers all gone numb
But I never see no postman
Down here on the farm

Call my baby on the telephone, I say
Come down and have some fun
But she knows what the score is
Down here on the farm


ダウン・オン・ザ・ファーム

 おもしれえもんは、ねえのかよ
キレてやらかしちまう前によ
菜っぱになっちまったかんじ
このままじゃカッペでおわり

 俺目当てに来る奴ぁいねえ
ソノ気にさせてもくんねえし
‘やれる’相手いるわけねえよ
このままじゃカッペでおわり

 健康的じゃん、だってよ
お日さまサンサンな、だってよ
でもよ、退屈で死にそう
このままじゃカッペでおわり

 

レモネード・シャンディ飲んで
そりゃ、事件にゃならんわな
水をなくした魚だよな
このままじゃカッペでおわり

 山ほど手紙を書いたのさ
てめえの指がしびれるまで
でも郵便なんざ来ねえよ
このままじゃカッペでおわり

 オンナに電話をかけたのさ
「こっち来て楽しくやるべ」って
でもあいつにはお見通しさ
このままじゃカッペでおわり

 表面上は、田舎暮らしの退屈さ、閉塞差を嘆く男の姿である。それで済ましても一向に問題ないのだが、多義的な解釈を可能にするのは優れた歌詞に共通するところである。語り手はかつて都会に暮らしていたことがあるのだろう。それが何らかの事情で故郷の田舎に帰ってきている(おそらくは向こうで挫折を経験したのだろう)。田舎の暮しは退屈だ、でもここを再び出ていくつもりはない。何故なら手紙を山ほど書いたり―原詩では1000通となっている―、都会暮らしをしていた時代に関係を持っていたのであろう女に電話をかけ、こちらに来るよう促しているからである。こちらから都会に出ていくなら手紙を山ほど書く前にさっさと(再び)出ていくだろうし、女にもこっちに来いなどとは言わないだろう。語り手は都会と田舎、どちらの生活にも現状では満足していない。都会は田舎の「健康的な」生活も、「お日さま」も求められない。かといって田舎の現状も受け入れがたい。そこで彼は田舎の暮しを、そのよい部分―健康的な生活やお日さま―を残しつつ変革させようとする、つまり批判的継承である。そのための表明やら変革のための協力要請やらの手紙をあちこちに書いているのだ。女への電話も、こっちで一緒に変革に参画するように要請しているのだ。だがいずれの試みも失敗している。このままでは田舎に押し込められて(down on)おしまいである、と語り手は嘆息するのだ。
 さらに、歌詞には都会と田舎、どちらにも一長一短があるということ、すなわち産業革命以降のヨーロッパ文明史観である、都会を全肯定し田舎を全否定することへの批判も込められている。表面上は田舎暮らしばかりを貶しているようにみえるが、語り手は都会ばかりを持ち上げているわけではない・・・・。
 とまあ、いつものように勝手気ままに垂れ流す私であるが、このように解釈したくなるだけの深みある表現を、この歌詞は得ている。使われている語句は簡潔でありながら、いくつもの解釈を可能にする。「彼は卓越した作詞家だ、天賦の才がある」[4]とニッキー・ギャレットがチャーリー・ハーパーを評するのも納得である。そしてガンズがこの曲を取り上げたのが必然だったのも―個人的にガンズのヴァージョンは気に入ってはいないが。
 「ダウン・オン・ザ・ファーム」はレコーディングに使っていたスタジオにプールが設置されており、それを利用しているときに書き始められたという。ハーパーは、「青い空にプールはゴキゲンさ。けど田舎に押し込められてるんならソーホーに戻りたいよ」と、歌詞の表面上の表現そのままといえるコメントを残しているが[5]、田舎の現状がまるっきり変わる余地がないのなら、という前提での発言とすべきだろう。ハーパーの生まれは大都会ロンドンだが、幼い頃にサセックスの郊外―つまりは田舎―に引っ越しており、人生の初発のうちに都会と田舎の両方の暮しを体験している。「ダウン・オン・ザ・ファーム」での多義的解釈を可能にする歌詞作りは、こうしたハーパーの人生経験が織り込まれていると見て取れる。

 

  この曲からは、「ハードコア」の始祖的な要素は感じ取れない。むしろ伝統的なハード・ロック的なイデオムが濃厚である。しかし決してそのエピゴーネンに留まってはいない。あくまでも82年のU.K.サブス的ロックンロールに鋳直されている。だからその鮮度は今も薄れていない。ちなみにこの不気味なアートワーク。アルバム・タイトルを上手くビジュアル化している。サブス作品のアートワークには秀逸なものが多い。

  この後、U.K.サブスはニッキー・ギャレットの脱退~幾度ものメンバー・チェンジを繰り返し、今日までしぶとく活動を続けていくが、作品としてはどうしても70年代末から80年代初頭のギャレット時代が頂点-『責任軽減』は先ほども述べた通り少々ダレルが―と断じたくなってしまう。先日出たライヴ映像も、演奏曲の大半がこの時代の作品で占められていたのも、バンド側―チャーリー・ハーパー―がそれを認めているからだろう。90年代後半にギャレットが復帰したことで―現在は再び脱退―、サブスはそれまでの長い不調から脱し、幾枚かの傑作や良作アルバムを出してはいるが、それでもあの時代を超えるものではない。だからといって、サブスの活動そのものがそれにより貶められることはない。ガンズによる「ダウン・オン・ザ・ファーム」のカヴァー、さらには上記ライヴ作品やキャプテン・オイ!から出たボックス・セットの存在は、あの時代のサブスが不滅であることを証明してみせているのである。[6]



[1] ‘NICKY GARRATT (UK SUBS, HEDERSLEBEN): 'In punk, I found the vehicle for skepticism.' (Interview Part 1)10/02/2020, Danil VOLOHOV’ for“Peek Aboo Music Magazine”,2020.
[2] Ibld.
[3] Ibld.
[4] Ibld.
[5] ‛Alex Ogg's Unedited History Of The Subs’ on“  the Time & Matter website
[6] これまでも何度か言及しているが、これはあくまでも私の意見であって、異を唱える人がいてもちっとも不思議ではない。音楽~芸術の味わい方や評価は人それぞれである。そして誤解しないでいただきたいのだが、私の意見は「絶対的に正しい」ということを意味していない。だから「こういう聴き方をしない奴はだめだ、邪道だ、語る資格はない」という意見を打ち出すことはこれまでしてこなかったし、これからもするつもりはない。自分の聴き方を一方的に押し付け、他者の聴き方を否定し誹る発言には、私自身うんざりである。