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#わたしをかたちづくったもの 父のこと

今日は父の4年目の命日。
もともと心臓に難病があり、何度も医者に覚悟を、と言われていましたが
亡くなる前2年程は大きな不調もなく、3ヶ月前にはハワイ旅行をしたりしていたので、
実は私や家族もまさかあの時の入院が最後の入院になるとは思っていませんでした。
なので、あっという間の出来事だったような気がします。
それにしても長い間の闘病生活だったので、とにかく闘いの日々が終わったんだなぁ、と思いました。

それから4年が過ぎました。
私が日本語教師としてようやく一人前(実際はまだまだだけど)になったあたりだったので、仕事の話をすると安心した表情を見せて「お前、日本語の先生になってよかったな」と言ってくれました。
今でも仕事をしていると時々父が上から見守ってくれているような気がします。

ところで、
日本語の教師をする上で大切なのが「学習者が理解できる言葉を選んで話せること」です。
世界中の先生方がそれをどうやって身に付けてきたのか。
これは人それぞれですが、私は父とのコミュニケーションで身に付けた部分が多いと思っています。

父は私が大学3年の時に脳梗塞になり、言語能力を失う「失語症」になりました。
病院の先生には「失語症というのは脳の中にある言葉や文法の引き出しに入っていたものがからっぽになってしまうもの」と言われました。

脳梗塞の翌日、父は全く別人でした。
私の名前も母の名前も言えませんでした。
「おなかがすいた」も呂律が回らないような言葉で「おああすいあ」としか言えない。
それどころかこちらがいつものように話しかけてもあまり理解できていない様子。
先生に「しばらくすれば治るんですか?」と聞くと
「言語を司る脳の一部が破損しているので、治ることはありません。リハビリをして失ったところを修復するしかないんです」と言われました。
つまり、引き出しから消えたものは新しく手に入れてこないとだめだということ。

その時どう感じたかは今となってはあまり覚えていませんが、とにかく「えらいことになっちゃったなー」と茫然としたことは覚えています。

後になって考えると、この時以来、父と深く詳しい話はほとんどできませんでした。
父は頭の回転が速く、知識も豊富でよく哲学的な話や世界の不思議な話なんかを話したり、色々なことを教えてくれた人でした。
父の脳は記憶や知識が消えたわけではなく、それをアウトプットする手段が欠損してしまったので、もちろんその後も大切な話は色々としてきましたが、「本当だったらもっと色々話せたんだろうな」という想いは今もあります。

とはいえ、父は死に物狂いでリハビリを続け、少しずつひきだしに言葉を増やしていきました。やはり人の脳のメカニズムはすごいもので、インプットを増やせば引き出しは埋まっていきました。
そして父の必死に頑張る姿は今でも忘れられません。
それがあったからこそ、数年後にはこちらが言っていることはほぼすべて理解できるようになりました。言いたいことも相手に伝えられるようになりました。

しかし最初の数年はこちらの話すこともすんなり理解できず、イライラさせてしまう日が続きました。(怒りっぽくなるのも失語症の症状としてあるそうです)
はじめのうちはこちらもどう話せば理解できるのかもわからず、複雑な話はほとんどできませんでした。

複雑な話、というのは政治や経済の話とか、専門的な話ということではありません。
「今日はいつも診てくれる病院の先生がお休みだから、いつもと違う時間に別の先生に診てもらう」といった予定外のこと、想定外のことです。
この場合、「いつも診てくれている先生が今日はお休みだ」という情報と「いつもと違う先生に診てもらう」という情報の二つがあり、これを一度に与えてしまうと理解ができません。

こういった事を家族である我々が理解し、
・話し方(ストーリー)を分かりやすくする
・ゆっくり話す
・分からなければ他の言い方をしてみる
・(こちらが)焦らない

ということを心掛けるようにしました。
更に加えるなら
・分からなければ図や絵を使う
・重要なキーワードを上手に使う

これって我々日本語教師が当たり前にいつもしていることなんですよね。
この時はまだ大学生で日本語教師になるとは夢にも思っていなかったのですが、ここで身についた「やさしい話し方」が今の仕事に非常に役立っています。
他にも自分が海外の中学高校へ行って英語で勉強していたことなんかも影響していると思いますが、
そのどちらも父のおかげ、です。

他にも色々とエピソードはあるのですが、長くなってきたので今日はこの辺で。




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