震災を風化させない「語り部バス」乗車
2022年8月12日。南三陸ホテル観洋に宿泊し、翌朝、ホテルが企画する「語り部バス」に乗車しました。この日は、東日本めがけて台風が向かってきており、空模様はどんより。2台のバスでツアーは出発しました。
同乗してくださった語り部さんは、語り部さんの中でも1番の若手。チリ地震の時の大津波も体験されていました。優しくも力強い訛り混じりの声で、案内が始まりました。
まず、立ち寄ったのは、戸倉地区。ここには海辺にほど近い戸倉小学校があった場所です。当時の校長先生が他県出身だったこともあり、津波に対する備えに十分向き合った結果、一人の犠牲者を出すことなかったそうです。津波の際の避難場所を行政から指示のあった屋上ではなく、小高い山に変更していたのが功をそうしたのです。写真におさめようにも、そこは建物の跡形もなく、ただただ緑の草木が生い茂るだけ。先には穏やかな大海原が広がっていました。
次に立ち寄ったのは、戸倉公民館。旧戸倉中学校です。隣接する体育館、駐車場は、震災直後沢山の人、車が避難をしてきており、この高さまで津波が来ることを想定していなかったことで、多くの方が命を落とされたのだそうです。現在公民館となっている建物、掲げられた壁の時計は、あの日の時を刻んだまま、今もこの土地から見守っています。
戸倉地区から反対の方向へとバスは向かいます。車中では、語り部の方のお話が続きます。次に訪れたのは高野会館。志津川湾から約300メートルの平地に立ち、震災前は、ホテル観洋が運営する総合結婚式場でした。東日本震災が起きたあの日、ここでは高齢者の方々が集い、芸能発表会が開催されていました。ほとんどが300名ほどが屋上に避難。尊い命がここで守られたのです。そんな場所が、震災伝承施設として登録され、震災から10年以上経過した現在も、当時の様子を知ることができるようになったのです。
そして最後に訪れたのは防災庁舎。避難を促すアナウンスを続けて、命尽きていった職員の方がクローズアップされた場所です。骨組みになった鉄骨だけがむき出しに。外は雨が強くなってきたようです。
語り部さんの口から放たれる衝撃の事実。その反面、車窓に広がる海は、その時の状況を想像できないほどに穏やかで。ホテル観洋は、震災当時、数百人の方々が避難をされ、過ごしていた施設です。ここに滞在し、美味しいものをいただきながらも震災に襲われたあの日を感じて過ごす1日は、表現しがたいほど、心を満たされる時間でした。
私の故郷も震災で打撃を受けました。しかし、震災の日、私はそこにいませんでした。何もできなかった。辛さ、怖さ、しんどさを共有できなかった。だからせめてあの日のことを忘れないようにしようと思っています。
南三陸ホテル観洋
〒986-0766
宮城県本吉郡南三陸町黒崎 99-17
#誰かの役に立てたこと
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