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Mari Nov. @ Lost + Found on Hastings st._11th 3:15p.m.


 橋を渡っている。深く濃い霧に遮られて、向こう岸は見えない。どこにたどり着くのかも知らないまま、歩いている。

 霧の向こうから、誰かが近づいてくる。やがて、触れられるほど近くまでやってくる。だけどいつも、顔だけが見えない。

「誰?」

 塗り重ねられた記憶の底のある一点が、ひとつの像を結ぶ。懐かしさと、哀しみに染みた色が胸に広がり、霧の粒子の一粒一粒を満たしていく。

 いつも、そこで目が覚める。

 その日は、夢の中と同じように深い霧だった。

 気まぐれな晴れの日が続いていたのに、今日は太陽の欠片もない。アパートを出て通りを歩くと、1ブロック先も見えない。白い闇に閉ざされた街並は、淡く幻のように霞んでいる。

 Hasting streetにあるカフェ Lost + Found の、お気に入りの席を目指す。本棚の横のカウチに沈んだら、昨日の夜の惨めな出来事を忘れられる気がする。

「こんな日に、これを頼まないわけにはいかないよね」

 オーナーと笑いながら、London Fogをオーダーした。濃いめのアールグレイにバニラシロップを忍ばせ、スチームミルクを注いだ飲み物。

 やわらかなミルクのFogが唇に触れて、アールグレイの香りが鼻をくすぐると、その瞬間だけは、完全に幸せになれる。カップの中の霧は、いつも優しい。

 マグを手の平に包む。指先から伝わる温度が体に広がっていくのを感じながら、久しぶりに見たあの夢について考えた。

 肩が広い、背の高い影。たぶん男だ。父親でも、友達でも、恋人(もういない、多分)でも、ない。

 目が覚めるたび、甘いような、取り返しがつかないような、名前のない感情に内臓が喘ぐ。手の中にある小さな甘い霧のように、唇の間に吸い上げたら、夢の中の霧も晴れるといい。

 ぼんやりと想いながら、一口飲んだ。瞬間。

 思い出した。橋の向こうからやって来る“彼”。

 スピーカーから流れる歌声が、人々の喧噪が、次第に遠ざかっていく。シロップの甘みを舌に残したまま、わたしはあの橋の上で、兄と向かい合っていた。

 兄は9歳の時、死んだ。事故だった。

 ほんの小さな出来事で、兄はあっという間に天国へ行ってしまった。わたしはその時4つで、さっきまで遊んでいた兄がどうして眠ったままなのか、よくわからなかった。

 それでも、骨を拾う母の狂ったような慟哭、誰もいなくなった後に大声をあげて泣いていた父の背中は、幼い目に強く焼き付いた。

 その時から、わたしの中で、“何か”が失われてしまった。

 兄という存在があった場所に漂う、白い霧。その霧は、弱った時を見計らっては姿を表し、わたしという存在の不確かさを嘲笑う。

 なぜかすっかり大人になった兄は、少し笑って、「マリ」、と言った。言葉ではない、想いのようなもの。耳ではなく、脳のもっとずっと奥に響く、繊細な波動。

「おまえは、何も失くしてなんかいない。これからも、何も失くすことはない。何があっても」

 わたしは、兄の目を見つめた。宇宙にひとつしかない宝石のようなそれは、細っこくてやんちゃだったあの頃と同じだった。

「俺だって、ほら、何も失っていない。“死”さえも、ほんとうは、“喪失”ですらないんだ」

 わたしはうなずいた。父さんと母さんにはちょっと悪いことをしたけど。と、兄は付け足した。

「マリ、覚えておいて。何があっても、“大丈夫”。そのことを。おまえが生きることで、父さんや母さんに、おまえが愛する人に、それを伝えて」

 もう一度うなずきながらわたしは、ありがとう、と言った。音楽のように、それは伝わったようだった。兄はまた少し笑うと、ひとまわり大きくなった右手でわたしの頭をなでた。

「お兄ちゃん、」

 風が吹き、橋を覆っていた霧が流れていく。兄の肩の向こうで何かがキラキラと強烈に輝いていた。それは兄を包み、わたしを包み、すべてを包んだ。
 
 Diana Krallが「Life would be so nice」と歌っている。人々は相変らず、Bunをかじりながら、コーヒーをすすりながら、笑ったり、深刻になったりしている。

 手の平に包んだままのマグはまだ温かかったが、表面を覆っていた泡はすっかり消えていた。単なる甘いミルクティーとなったその液体を一気に流し込み、席を立った。

 店を出ると、いつの間にか霧はすっかり晴れて、街はたった今産まれたばかりとでもいうように、光を反射していた。

 わたしは歩きだした。

 もう、あの夢を見ることはないだろう。なんとなく淋しいけど、わたしは “大丈夫” だ、きっと。

 とりあえず、そうだ、スタンレーパークまで歩こう。後のことは、それから考えよう。

 青い空の下で、わたしは初めて“完全”になった。いや、“完全”であることを、見つけた。

 それはカップの底のバニラシロップのように、ただ、甘い。


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『Ku:Cafe in Vancouver』はバンクーバーに実在するCafeを舞台にした12のショートストーリー。2014~2015年にフリーマガジン『Oops!』で連載されたものです。

挿絵は愛知在住の画家/シンガーソングライターの原田章生さん。

書籍購入は、コチラから。

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