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Hinata@ Cartems on Pender st._Apr. 10th 10:19p.m.

 イワキくんは、山を越えてやって来る。スクアーミッシュの崖のふもとに住む彼とは去年の夏、ペムバートンの農場で開かれた友人の結婚式で知り合った。

 雄大な山々を背景に、額に汗を滲ませながら新郎新婦を見守る彼を、山みたいな人だなあ、と思った。若い頃は、そこそこ人気のある格闘家だったらしい。(「プロレスラーとちゃうで」、と彼は言うが、そもそも違いがよくわからない)。

 私はというと、ダウンタウンにあるローカル誌の編集部で毎晩遅くまで働いていて、睡眠時間もままならない。

 これじゃあ日本にいる時と変わらない、と、時々、閉ざされたような気分になる。

 イワキくんが電話をくれるのは、たいていそんな夜だ。

「桜、見に行かん?」

 疲れ切ってアパートへ向かう夜道では、あけすけな関西弁が染みる。

「ダウンタウンの桜はもう終わっちゃったよ」と言うと、
「大丈夫や!」と自信たっぷりだ。

 うん。じゃあ、金曜日の夜に。

 仕事あがりに車を飛ばしてやって来るイワキくんのために、Cartemsでドーナツを買った。

 お気に入りのアールグレイ、それから4月のフレイバー。キレイにおめかしされたドーナツたちが、赤い箱に収まっていく。

 通りに出ると、クラクションが鳴った。3週間ぶりに会うのに開口一番、「ハラ減った~! なんかエエにおいする、何買ったん?」とくる。

「ドーナツ。桜味の」
「お~、やるなあ!」

 中学生のように喜ぶイワキくんの黒いワゴンは、ダウンタウンを通り過ぎ、キツラノに向かっている。

「昔、俺この辺に住んどってんけど、エラいかっこええ桜の樹がおってん。まだ元気やったらええんやけど」と、古い友人の話でもしているかのようだ。

 彼のこういうところを、いいなあ、と思う。それは、山や樹を見て、いいなあ、という感じに似ている。

 人影のない22時過ぎのキツラノビーチに車を停め、ドーナツの箱を抱えながら歩く。

 桜は満開だった。ぼんぼりのように揺れる八重桜。可憐なソメイヨシノ。夜を背に咲く花の群れは美しさを超えて、むき出しの命の妖艶さを晒している。

 足を止め、眠らない花たちを仰ぎ見た。

「樹にも、“樹魂”ってあってな、それぞれの樹の声って、ちゃんと聞こえるねんで」

 イワキくんが言った。

「どうやったら聞こえるの」
「人の呼吸を、樹の呼吸に合わせる。難しいことやなくて、ただ、心穏やかに深呼吸でもしたらええんちゃうかな」。

 深呼吸どころか、わたしはここのところ、ちゃんと息をしているだろうか? 

 音もなく花びらが風と踊る。宇宙の手で創られた完璧なダンス。

「こいつや、俺の一番好きな奴」

 顔を上げると、他とは確かに風貌が違う一本の樹がそこに“いた”。

 ごつごつとした濃い色の樹肌に、曲がりくねった幹。ぐっと海の方へと突き出した枝に、ひしめき咲く花。じっとここに根を張って、何十年も海を見つめている老人のようだ。

「元気やったかあ」

 イワキくんは旧友の肩を叩くみたいに、懐かしそうに幹に触れる。邪魔をしないよう見守っていたら、「そや、ドーナツ食べよ」と、いつもの笑顔で振り返った。

 箱を開けると、甘い匂いが夜と混ざってさらに甘い。

「ひなたの好きなん、先に選び」と言うので、アールグレイを選ぶ。

「俺はこのごっついの」

 イワキくんはメープルウォールナッツを手に取ると、いただきまあす、と子供みたいに大きな声で言った。

 深呼吸の代わりに、私達は静かにドーナツを食べた。

 満開の桜の樹の下でドーナツを一口かじるたび、閉ざされていた穴が崩れ堕ちていく。

 本当は、閉ざされてなんていないのに。つながってひとつなのに。でもその最中にいると、わからなくなってしまう。わからないまま、時々泣きたくなる。

「ドーナツの穴って、なんであるの?」

 夜を見つめたまま私は聞いた。

「向こう側が見渡せるようにとちゃうか」

 二つ目を頬張りながらイワキくんは答えた。穴の向こうに、何が見えるのだろう。

 ふわり、とぬるい風が吹いて、花びらが舞った。一枚一枚、美しいリズムで回転しながら、地上までの軌道を描く。

 かじりかけのドーナツの穴に、樹魂のかけらたちが流れ込んでくる。

 あ、今、桜の声がした。

 そう思った時、3個目のドーナツに伸ばそうとしていたイワキくんの手が、髪に触れた。

「花びら付いとる」

 そう言う彼の髪にも花びらは付いていたのだが、私はなぜか急いでドーナツをたいらげ、

「これは、半分こしよう。4月の新作だから」

 桜の花びらを散らしたピンク色のドーナツを半分にして差し出した。

 ドーナツの穴と、私の中の閉ざされた空白。それはきっと、満ちていく甘さを知るために、あるのだ。

「お、これ美味い」

 髪に花びらをつけたまんま、イワキくんがつぶやいた。




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『Ku:Cafe in Vancouver』はバンクーバーに実在するCafeを舞台にした12のショートストーリー。2014~2015年にフリーマガジン『Oops!』で連載されたものです。

挿絵は愛知在住の画家/シンガーソングライターの原田章生さん。

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