見出し画像

デジタル社会の市民を育てる

アメリカのドラマ「ブラックリスト」が大好きで、Netflixで見ている。その中で主人公のレディントン(彼は犯罪者だが、実に含蓄のある哲学的な物言いで視聴者を魅了する)が次のようなセリフを口にする。ネット検索で拾ったものなので多少不正確な点があればご容赦願いたい。

"People love to decry big brother the NSA, the government listening in on their most private lives, yet they all willingly go online and hand over the most intimate details of those lives - to big data."
要点をかいつまんで日本語にすると、「みんな、政府の情報機関が市民の個人情報を収集するのを非難するけど、自ら進んでオンラインにアクセスし、自分の個人情報をさらしているじゃないか」ということだ。

SNSにあふれる投稿の中には、無防備な画像が多い。自分の子どもの可愛い画像を、明らかに場所や時間が特定できる状態で投稿していたりするのを見ると、知人でもないのに心配で落ち着かなくなる。国の機関や企業の情報漏洩やSNS詐欺には怒りをぶちまけるのに、自分自身のセキュリティの甘さには無自覚な人は多い。

学校は生徒の個人情報をたくさん所有しているので、細心の注意でそれを扱わなければならないのは当然だが、困るのは生徒や保護者が学校行事や部活動の写真を嬉々としてアップしてしまうことだ。最近は特に「撮ったものをSNSにアップするのは当たり前」という考えの人が保護者にも増えており、トラブルを避けるための注意喚起は欠かせない。

社会のデジタル化は「急速」という言葉では追い付かないほど発達しており、国際的に見るといわゆる「デジタル民主主義」といわれる枠組みに属する試みも増えている。一方でフェイクニュースや言論攻撃等、民主主義の根幹をゆるがすような現象に人々が翻弄されている。

私は数年前に「デジタル・シティズンシップ教育」に出会い、その考え方にいたく共感した。デジタル・シティズンシップ教育とは、デジタルツールを用いて責任ある市民として社会に参加するための知識や能力を育む教育である。従来の「情報モラル教育」のようにリスク回避のみに重点を置くのではなく、デジタルツールを使いこなして社会の課題解決ができる「自律的な市民」の育成をめざす考え方だ。

子どもにはデジタル社会(この言葉自体、もはや死語だろう。デジタルが無い社会など存在しない)で生きる術を早くから教えるべきだ。昔私たちが「知らない人についていってはいけません」と親に言われたように、身を守る方法や個人の責任をしっかり教えつつ、素晴らしい可能性、つまり自分たちが社会に参画し、国境を越えてオンラインでつながり世界を変えていける希望について大人が語り、ビジョンを描いていくべきだと思う。

教員は、若者に未来への希望をもたせるのが仕事である。「デジタル化にはついていけない」などと言って仕事を放棄してはいけない。デジタル化したといっても、「民主主義社会の市民を育てる」という本質は従来の教育と何ら変わらないのだ。もがきながらもデジタルツールと対峙して深い思慮や洞察力を見せる大人の姿を、子どもは必要としている。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?