「ヒトの視点」から問い直す『正解するカド』の衝撃ラスト——オンエア5周年記念短編『カド -ゴ-』を読む
2017年に放映されたTVアニメ『正解するカド』。2022年6月末、オンエア5周年を記念して、後日談を描いた短編小説『カド -ゴ-』がFebri上で無料公開されました。本記事はこの小説と『カド』本編に対する雑な感想です。
「ゴ」——「五」、あるいは「後」の物語。『カド -ゴ-』の舞台は、現実世界と同様に本編から5年が経過した世界。つまり、2022年6月です。こういう、現実と作中の時間経過が同期してる作品が自分はめちゃくちゃ好きなのですが、自分はリアタイ勢ではなかったのでリアタイの方々がちょっとうらやましかったりします。そして放映後5年経ってもこのように新たなコンテンツを供給して下さる制作陣の方々には、感謝の念に堪えません。
本記事は『カド』本編および『カド -ゴ-』のネタバレを含みます。また、あくまで自分の勝手な妄想(異端寄り、贔屓目多め)であり、これが作者の意図だとか正しい見方であると主張するつもりはまったくありません。断言している文章も含め、「……と勝手に思ってる。知らんけど。」という文字列を脳内で適宜補完しながらお読み下さい。
『カド』本編ラストをあらためて振り返る——シンパシーとワンダーの直交軸
最初に、『カド』本編に対する自分のスタンスを表明したいと思います。
『カド』の衝撃的なラストについては賛否両論あるようです。自分はその「超展開」のラストも含めて、『カド』という作品はとても面白いと思ったし、大好きです。そのこと(ラストをどう受け止めたのか、どこが面白いと思ったか)は、かつて以下の記事に書きました。
でも、自分の抱いた感想は万人が納得できるというものではない、ということも、理解はしています。
この記事を非常にざっくりとまとめると、こんな感じです(あくまで個人の勝手な解釈であり、公式見解とは一致しない可能性が非常に高いです)。
厨二病な自分はこの作品にメタな仕掛けを(勝手に)見いだし、それをとても楽しむことができました。でも登場人物たち、そして彼らに寄り添っていた視聴者にとっては、あのラストはたまったものではなかっただろうというのは想像にかたくありません。
実際に自分の感想記事を読んで下さった方々からは「なるほどとは思った」「納得はできたが受け入れられるかは別の話」と非常に冷静かつ配慮あるご意見を複数頂戴しました。そしてそれはまったく自然な心情だと思います。自分の見方がかなりの異端であり、変態的であることは自覚しています。
以前、別作品に関する記事でも紹介しましたが、作品に対し「驚き」と「共感」という2つの軸を仮定する考え方が最近個人的にけっこうしっくり来ていて、よくこの構図を色々な作品に当てはめてみています。「物語構造」の軸と「キャラ」の軸、と言い換えてもよいかも知れません。『カド』は典型的なワンダー寄りの作品だと思っていて、自分自身もどちらかというとワンダーを作品に求めるタイプのオタクですが、世間的にはシンパシーのほうが趨勢だという印象はあります。
異方存在もまた、創作物としての現宇宙に「驚き」を求めていました。もしかすると本来の異方存在にとっては、「驚きが最大化された」あの結末は喜ばしいものであったのかもしれません。ラストのザシュニナの吹っ切れたような表情にその面影を見いだせるような気はしています。ただ、現宇宙で長く過ごすうちにメンタリティが少々人類に近づきすぎていた彼にとっては、ラストの展開はショックでもあったでしょう。まして「人」である視聴者は裏切られたように感じてもおかしくありません。シンパシー寄りの方々にとってはなおさらです。
『カド』の「人の心のないソリューション」を問い直す『カド -ゴ-』
そう、あえて過激な言い方を許してもらえるならば。
あのラストは、「人の心のないソリューション」だったのかもしれません。
人類より上のレイヤーの視点に立った、「人間離れ」したソリューション。
そこには「人の心」とは少し違う、一種の「異方の心」がきっとあったのかもしれないと思います。「創作で人の心を動かす(驚かす)」ことを最優先事項とする、創作第一主義。異方にとって「創作の登場人物」である人類も、それを享受する異方存在も、さらには作品の視聴者すらも、その原理には抗えないとする価値観。
誤解しないでほしいのですが、制作陣の方々のことを「人の心がない」と評しているわけでは決して、決してないです。作劇上の優先順位の問題です。
自分は上記の記事に書いたように『カド』という作品は「あのラストでなければならなかった」と考えています。しかしそれはあくまでメタレイヤーでの理由付けです。純粋に真道というキャラの行動原理としては弱いところがありました。
キャラよりも物語構造を優先した結果として、どうしてもキャラ重視の方々にはもやもやが残るでしょう。作品世界のレイヤーにとっては一種の「禁じ手」を発動したのは確かなのですから。その結果、キャラも視聴者も衝撃を受けたのですから。
自分の変態的な「人の心のない」解釈は、キャラに入れ込んでいた人ほど、きっと相容れないものです。これはしかたがないことです(自分はキャラ派の方々の感想は尊重したい。自分のメタ偏重な厨二病解釈を押しつけようとは思っていませんし、それは今でも変わりません)。
そう、あのラストは、メタなレイヤーでしか説明できない。自分はそう思い込んでいた。ある意味で、自分はキャラの立場であのラストに向き合うことから逃げていた。
ところが。
ところがです。
ようやく本題に入ります。
『カド -ゴ-』は、意図的かどうかはわかりませんが、本編ラストのキャラの行動原理そのものを補強している。
なぜ真道が「人の心のないソリューション」に行き着いたのかを、作品世界のレイヤーでふたたび問い直している。
おそらく、そうは言ってもキャラ派の方々には依然として受け入れられないとは思います。それでも「メタ」に逃げずにあくまでキャラの物語として、『カド -ゴ-』は本編のラストシーンを問い直そうとしている。しかも、あのラストの「ありえなさ」を正面から受け止める形で。
いやはや、5年目にしてすごい文章が出てきたものです。
そのキーとなるのが「浅野」です。
『カド』ラストのホワイダニットとしての真道の変人エピソード
『カド -ゴ-』は、本編では存在感がやや薄かった登場人物、「浅野」の一人称で語られます。完全にフラットな第三者視点で描写されていた本編と対照的であり、小説という媒体の強みです。35歳という年齢から振り返る学生時代の距離感が絶妙です(なんでまど先生は陰キャ大学生の薄暗い心情を描くのがこんなにも上手いのだろう……。タワマン文学のようなリアルな解像度があります)。
浅野という常識人の視点から真道を語る構成が実に巧みで、真道の変人性、ある種の「人間離れ」「浮世離れ」しているところが本編以上に浮き彫りになっています。品輪博士とは違う形での「天才」というか、むしろ「馬鹿と天才は紙一重」的な。
人間離れしているからこそ、真道は異方と適合度が高かったのかもしれません。「同年代とはうまく会話できないけど先生とは話せる」というエピソードもそれを表しています。「できてない」人類同士のコミュニケーションより、異方存在のほうが真道にとってはきっと意思疎通がしやすいのでしょう。そもそも折り紙が得意なのも、精神構造が異方寄りな気がします(ワムも紙を折れば作れるし、そもそも2次元から1つ上の次元を生み出すのが折り紙)。
そして、真道と浅野はきわめて対照的な人物として描かれています。
植木を切った子供を見て、ただぼんやりと心ここにあらずの真道と、子供を諭す浅野。
子供が「命について知りたがっている」と解釈した真道と、「助けてほしがってる」と解釈した浅野。
言葉を額面通りに受け取る真道と、その背後にある本当の気持ちを推し量ろうとする浅野。
古本を読み漁り知を追究する真道と、「人の心」に寄り添うことができる浅野。
ワンダーとシンパシー。
警察官に向くという「典型的なヒトのメンタリティ」を持つ浅野の目を通せば通すほど、際立っていく真道の特異性。真道は命に頓着がなく、人の気持ちを推し量ることよりも知的欲求を優先しようとします。本を読み漁る真道の姿は本編の読書に没頭するザシュニナに重なります。真道はザシュニナにとても良く似ています。
そんな真道が、ザシュニナの願いを知ったらどうするだろうか。どうやってそれに応えようとするだろうか。
——真道は、植木を切った子供の言葉を額面通りに受け取った。そんな彼は、ザシュニナの「驚きたい」「情報量を最大にしたい」という言葉もまたそのまま素直に受け取るだろう。書物と知識を愛する彼は、それをとても自然な欲求として解釈するだろう。
そして素直に、考えつく限り最大の「サプライズ」をもってそれに応えるだろう。本のために食事を抜くような彼のことだ。情報量のために命を賭すことすらなんとも思わないだろう。
あまりに人間離れした、むしろ異方存在に近い感性を持つ彼はきっと、ヒトのメンタリティを遥かに凌駕したソリューションを繰り出すに違いない——。
それこそが。
「人の心のない」ソリューション。
「人の心が到達しえない」ソリューション。
「人の心」が思いつく程度のサプライズでは、ザシュニナを真に驚かすことは到底不可能です。刑部鍍金で製作したアンタゴニクスによりフレゴニクスを無効化するという「12話Aパートまでの秘策」は、とっくにザシュニナにバレていました。沙羅花との子供という「Bパート初出の秘策」——視聴者ですら驚きあきれて絶句するそんな「大番狂わせ」を用意して初めて、ザシュニナに「空前の情報量」を与えることができるはずです。真道はきっと「そういう発想ができる」人間です。
『カド -ゴ-』で浅野の口から語られる真道の変人エピソード一つ一つが、真道の独自の「ものの考え方」を物語っています。真道はいったい何をどう考えてあの衝撃ラストに辿り着いたのか。真道の素の性格を知った今、それがおぼろげながら見えてきます。
真道の性格的に、あのソリューションこそが自然な結論だったのではないか。そして彼はきっと心底それが「正解」であると信じて、あの行動を取ったのだ——そんな気がしてくるのです。
つまり、『カド -ゴ-』は、今だから出せる『カド』ラストのホワイダニットなのかもしれません。
あのソリューションは真道が「あの頃、ずっと探していた何か」そのものなのかもしれません。おそらくそれは、人類的発想からかけ離れすぎていて、真道のそれまでの半生では見いだすのが難しい類いのものであっただろうからです。
ヒト代表・浅野視点で語られる真道の「馬鹿さ加減」
あの最終回にモヤモヤした視聴者はむしろ、浅野に近い気がします。常識人の浅野は人類の、そして視聴者の代弁者でもあります。真道のある種の「馬鹿」で「子供」のような部分に、浅野は気づいていました。
よく言えば常識にとらわれないから。
悪く言えば心底「馬鹿」で「子供」だから。
あんな「ありえない」ソリューションに辿り着ける。
それが、真道という人物で。
その最大級の発露がきっとあの最終回なのだと思います。
「浅野の一人称」というフィルタを通すことで、あの超展開の根拠がひときわ鮮やかに浮かび上がります。本編では作劇上の理由(情報量の最大化の観点)から最終回の伏線を張ることが許されませんでした。また仮に変人・真道が一人称で語ったとしたら、本人にとっては自明でも大多数の人類には理解できない記述になったことでしょう。沙羅花や夏目が語り手でもおそらくバイアスがかかっただろうと思います。真道の「馬鹿さ加減」を知る浅野だけが、視聴者の立場にたったホワイダニットを語り得る存在でした。
人類代表・浅野から見れば、ラストシーンで真道のやったことは心底から「馬鹿」としか思えない行動だったでしょう。浅野はアンタゴニクスの秘策までは知っていたかもしれませんが、もし「幸花」のことを知ったら、きっとふたたび言ったに違いありません——「俺は心底から。こいつは馬鹿なんだと思った」と。
つまり『カド -ゴ-』はキャラの視点であのラストの「ありえなさ」を認めている作品といえます。
ただし、「ありえない」「馬鹿」といってもあのラストの評価がこれによって下がると言いたいわけではありません。それはヒト側の視点でしかないからです。むしろ浅野と真道の「両論併記」によってロジックがより強固になり、ヒト側である視聴者にとってもわかりやすくなったのではないかと思っています。
真道のソリューションは、「作劇上の正解」でした。異方にとって「創作物の登場人物」である人類には理解しえないタイプの「正解」でした。そしてまた人類側にとっては「馬鹿」としか思えないソリューションでした。それらは同時に成立しうる概念で、その意味で浅野の考えと真道の考えには勝ち負けや優劣はないというのが自分の信念です。
そして、そんな真道の奇抜な行動原理がメタレイヤーだけでなく作中のキャラの関係性というきわめてウェットなレイヤーで説明されることに、さらにそれ自身がとんでもなくエモい物語であることに、自分は本当に驚嘆しているのです。
ヒトに近いひとりの人間と異方存在に近いひとりの人間は、互いを羨み、互いが持っていないものを見合い続ける。シンパシーとワンダーの軸は違うベクトルを持っているけど、組み合わせることで「面」というひとつ上の次元の構造を形作ることができる。完全に理解し合うことは永遠にできなくとも、「編み物みたいに言葉を投げ合い」ながら何かを探し続けていた大学生活——「異方と人類のファーストコンタクト」の陰に隠れた、もうひとつの異なる種類の知性同士のコミュニケーションの物語が『カド -ゴ-』ではないかと思うのです。
植木鉢のエピソードから爆誕する「新主人公」としての浅野
植木鉢のエピソードですが、めちゃくちゃ美しい伏線になっているんですよね。
最終ページで、真道の口から浅野の人物評が語られます。
そう、浅野は、助けを求められたら応えられる人間です。実際、彼は、植木鉢を切った子供が内心では助けてほしがっていた、ということを的確に見抜いています。それは、真道が羨んでも持ち得なかった能力です。
そんな「いい話」の余韻も覚めやらぬうちに急展開する物語。御船先生からの電話であの石が《瓶》(おそらく「クラインの瓶」ですよねこれ)であると判明します。その電話にかぶせるように入ってきた映像に映っていたのは、野生のおっさん……。
御船先生から伝えられた、《瓶》に封じられたメッセージ。
そのメッセージの中身は。
よりによって。
それは。あまりにダイレクトな、人類史上最大級のSOS。
そして。
そこにいるのは浅野だ。
「助けを求められたら応えてしまう」人間だ。
植木鉢の話に隠されたピースがここでカチリと嵌まる瞬間です。
真道は、ザシュニナの希望には応えられても、今回の助けを呼ぶ声には気づけないかもしれない。
だけど、浅野なら。
浅野なら、きっと。
異方存在・アォリアォエルシンヴァローハの願いに応えることができるに違いない……!!!
「助けを求められたら応えてしまう」という浅野に投げかけられる救助要請。完全に主人公ムーブです。本編では脇役に過ぎなかった浅野に突如投げかけられた「主人公」としてのスポットライト。「新主人公」浅野が爆誕した瞬間です。
「続編オープニング」という「情報量を極大化する」フォーマット
というわけで、もう浅野が活躍する未来しか見えない完璧なツカミでした。ひょっとしてこれは続編来るか!? という淡い期待もありましたが、今のところ特に公式からはそのような発表はないみたいです(2022/7/9のclusterイベントでも特に言及はありませんでした)。
実際のところはわかりませんが、ありそうな線としては、これは「完璧な続編オープニング」というていの作品なのかなという気はしています。架空映画の予告編とか架空の本の書評みたいなものなのかなと。
だって、あまりにフォーマットが完璧すぎるからです。
前作から数年後。世界は前作の痕跡を残しつつも、徐々に平凡な日常に戻りつつある。新たな主人公の性格がいくつかのエピソードで浮き彫りになる。そして突如破られる日常、新たな事件の発生。回収される伏線。物語が始まる予感。
……いやもうこれ、鉄板の「引き」じゃないですか!
そもそも「続編オープニング」というものは最高潮に盛り上がるコンテンツです。新たな物語の予感に爆上がりする期待は1話完結モノの比ではない。連載漫画やTVアニメで「続きが気になってしかたがない」という心境は誰しも味わったことがあると思います。
で、盛り上げておいてからの。
最高潮での寸止め。
完全に生殺し状態です。あんまりです。なぜ、ここで切るのか。
作者の力量なら他作品の後日談と同様に、普通にいい話で終わらせることもできたはずです。もちろん、ぶん投げという「芸風」だと断じるのは容易いことです。
でも。『カド』という物語を愛するファンの一人としては。
この物語が「終わってほしくない」という気持ちがあるのも確かなのです。
読書中、残りページが少なくなってきたときの名残惜しさ。いい映画を見終わったあとの、ずっとこの世界に浸っていたかったという気持ち。公式からの供給が途絶えた世界で、自己増殖する新たな物語の妄想。
そんなオタクに狙ったように投げつけられた「続編オープニング」という一種の夢。
物語はまだ終わっていない。僕らが2022年の世界をこれからも生きていくように、浅野達もまた2022年の世界を生き続けていく。新たな来訪者が助けを求めている世界を。そんな夏の夢。
5年前、幸花はこんなことを言いました。
物語はまだ《途中》で、これからも続いていく。そこから無限の情報量が生成されていく。
そう。確かに『正解するカド』の放映は終了しました。でも人類の想像力は無限に続いていく。
だから。
だからこそ、あんな場面で唐突に『カド -ゴ-』の幕が下りたのだ。
「続編オープニング」フォーマット——それこそが、無限に生み出される情報量の生成速度を極大化する形式だから。
人類の想像力に火をつける最適ポイントだから。
少なくとも自分は、いまや始まらんとする「新主人公」浅野の物語に想いを馳せずにいられない。それが、何よりの証拠。
というわけで、とても『カド』らしいたたみ方(たたんでない)の『カド -ゴ-』を何度も読み返しながら、次の周年イベントに向けてこれからも想像力をたくましくしていきたいと思います。
* * *
「スキ」(♡)頂けると励みになります!
(noteのアカウントなくても匿名で押せます)
* * *
本稿は、ふせったーに投げた雑な感想の一部を再構成したものです。元のふせったー記事へのリンクも置いておきます。
壁打ち状態なので、「スキ」(♡ボタン)やコメント頂けるとものすごく喜びます(アカウントがなくてもスキできます)