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『正解するカド』、メタ視点で観たらこんなに面白いってことを全力で訴えたい

2017年のTVアニメ『正解するカド』を今頃になって観たらラストまで含めて個人的にはめちゃくちゃ面白かったのですが、世間の声を見ると面白かったという境地に辿り着いてない人が多いみたいで、もったいない!! ということで、『カド』のここが自分は面白かったんだー!と叫ぶだけの記事です。

もちろん自分の解釈が「正解」である保証なんてまるでありません。解説や考察からはほど遠い、贔屓目と相当に変態的な見方に基づいた、ただの妄想であることは自覚してます。ラストが賛否両論なのも当然だとは思ってます。すごく人を選ぶ作品です。でもそれも含めて、メタな視点で観てみると、途端にこの作品が愛おしくなってくる。少なくとも自分にとってはそんな作品でした。

当然ながらがっつりネタバレを含みます。ご注意下さい。

ラストは超展開「でなければならなかった」と思う理由

正解するカド』。ファーストコンタクトもの(人類とそれ以外の知性との初遭遇を描くジャンル)として位置づけられると思います。「異方」から来た「ヤハクイザシュニナ」と人類の交渉劇。『シン・ゴジラ』を彷彿とさせる政府陣の試行錯誤。未知の概念に対する人類社会の思考実験。面白いです。どんな結末を迎えるのか、視聴者の期待は否応なしに高まっていきます。

順調に積み上げられていく物語。しかし9話で第一の転機が訪れます。ヒロイン・徭沙羅花は実は異方存在だったー! な、なんだってー! そして最終話。本性をあらわしたヤハクイザシュニナに主人公の真道が倒されてしまう。最大のピンチ。そこに颯爽と現れたのは……新キャラ、幸花! ザシュニナよりさらに上位の存在である彼女は圧倒的暴力でザシュニナを完膚なきまでに叩きのめす! 人類は救われた! 大・団・円☆

……いやあ、びっくりしましたよね?

まさか最終回Bパートで突然出てきた新キャラがすべてを解決してしまうとは。

このへん、拒否反応持たれた方はけっこういると思います。

一見、作劇のセオリーを完全無視してるようにも思えてしまう超展開。自分も「なんじゃこりゃー!」と叫んでしまったし、きっとあの引きつったザシュニナと同じ表情だったと思います。ぶっちゃけ、ひでえ、と思います。

でも。

「こうでなければならなかった」。
と、あらためて自分は強く思うのです

この、ちゃぶ台を返すどころか爆発四散させるような、めちゃくちゃな結末「でなければならなかった」。

それはなぜか。

思い出して欲しい。ヤハクイザシュニナは、なぜ異方からこの宇宙にやってきたのか? 彼が求めていたものはなんだったか?

情報が欲しい。と彼は言っていた。いや、それだけではまだ本質ではない。真道の台詞を引用したい。

真道「処理しきれないというのは莫大な量を短時間に摂取すること。集約した情報を一度に与えられることだ。つまりわかりやすく言うと、《あいつが予想もしなかったことが起こればいい》。ヤハクイザシュニナは《驚きたい》んだ」
『正解するカド』第11話

驚きたい。とにかく驚きたい。情報の変化量を最大にしたい。それがザシュニナの希望であると、少なくとも真道は解釈しました。

でもどうやって驚かす?

全知全能のザシュニナは、ちょっとやそっとのことでは驚かない。凡人が考えるような「サプライズ」なんてだいたい想像がついてしまう。真道たちが切り札としてアンタゴニクスを密かに開発して身につけていたことさえも、彼は予測していました。だから、とにかく想像できる限りの「とんでもないもの」を突きつけなければならないことになります。

それこそ、視聴者が驚きあきれて絶句するくらいの

阿鼻叫喚と怒号が飛び交うくらいの、作劇セオリーをガン無視した大番狂わせ

視聴者が鑑賞後に納得して大満足する程度の「鮮やかなソリューション」ではとうていザシュニナを驚かせることは無理に決まってます。そんなものでザシュニナが驚いて改心した、というストーリーにしてしまったら「ザシュニナもその程度か、ちょろいな」「所詮よくあるヴィランで終わったな」という感想止まりになってしまう。それは人智を超える圧倒的存在としての異方存在の描写に嘘をつくことになる。異方を貶め、ザシュニナを裏切ることになる。

だからこそのあのエンドだと思うんです。

あえて作劇上の禁じ手を使ってまで、真道は、そして制作陣は、交渉人としてザシュニナの希望に「全力で応えてやった」んです。これって、異方存在に対する、そして作品世界そのものに対する、この上なく誠実な「正解アンサー」といえないでしょうか? まあそのために視聴者含めていろんなものを犠牲にはしてるのですが。

開いた口がふさがらない。想像の斜め上すぎた。裏切られた。視聴者がそう思い、怒りや絶望すら感じたとしたら、この仕掛けは完璧に作用したことになります。

幸花の伏線が一切ないのも、

「だから、この交渉は先に話すことは出来ない。《サプライズ》には《秘密》が必要だからな」
『正解するカド』第11話

という姿勢を、作品そのものに対しても徹底して貫いたからこそではないかと。

そりゃあ、視聴者が文句を言いたくなるのは当然です。だってこの作品は、視聴者の満足や劇中の登場人物達の幸せよりも、劇中の問いにメタなレイヤーで「正解」を出すことを優先したんだから(と自分は解釈した)。ひどい話です。でも自分はこの作品のそんなちょっと不器用なところが一周回って大好きなんです。「こいつ、やりやがったな……! 視聴者を犠牲にしてまで最後まで物語世界への忠誠を貫きやがったな……!」最終回でちゃぶ台と一緒に爆発四散しながら、薄れゆく意識の中でこんな感慨で胸がいっぱいになるんです。

同時に、あのエンドは商業アニメ作品としてきわめて絶妙にギリギリを攻めた作品であったとも思います。もっと視聴者を「驚きあきれさせる」なら、例えば全員死ぬとか、突然実写になるとか、食パンくわえた沙羅花が走ってくるとか、おいしいカレーの作り方の説明動画になるとか、ともかく自分の凡庸な想像力の埒外にあるような結末のほうが「効果」は高いかもしれません。でも、そんな放送事故や実験作品みたいなものはさすがにTVアニメで流せない。それに、不条理劇にはしたくなかったんじゃないかな、と勝手に想像します。曲がりなりにも物語として成立する範囲で、「とんでもない結末」を用意したのがあの絶妙なラインなのかなーと思います。

この宇宙は異方存在にとっての「エンタメ作品」

もうひとつ、「異方」が比喩している(かもしれない)ものをいろいろ妄想してみると、さらにこの作品のエモさが増してくる気がしています。

10話にこんな台詞があります。

沙羅花「私はこの宇宙の、一番のファンだから」
『正解するカド』第10話

この台詞を聞いた瞬間、自分は確信しました。

ああ、異方存在にとってこの宇宙は創作物なんだ。そして人類は、その登場人物なんだ

異方存在は、この宇宙をエンタメ作品として享受する存在なんだ。

本当にそんな比喩で作品が作られたかはわかりません。自分の妄想です。ただ、本編ではカットされた第10話脚本の台詞とト書きに、情報の「繭」を覗き見た異方存在【ワ】の描写として

【ワ】「続きが気になるの」
作品の続きを楽しみにするファンのような心境で
『正解するカド』シナリオ決定稿第10話

とあったので、そう悪い解釈ではないかも、と信じてます。

この宇宙は異方にとっての創作物。この解釈で全編を眺めてみると、めちゃくちゃ腑に落ちるんです。

37+3次元の異方存在にとっての3次元宇宙は、3次元の僕らにとっての「二次元」。

異方存在は「情報」を欲しています。まるで僕らが面白いアニメや映画や小説を欲するみたいに。暇を持て余した神々が大量に作成した「情報の繭」はそれぞれ彼らにとっての「創作物」であり、その中には独自の宇宙=作品世界が広がっています。彼らは宇宙の初期パラメータ(作品設定)を好きに変えて宇宙の進化をシミュレートできるし、ナノミスハイン(脚本によれば、文字通り「バイナリエディタ」であるらしい)で物語を「編集」することだってできます。

ある日、とある繭を「読ん」だ個体【キ】が言います。

キ.特殊な感覚がある
キ.繭全体の情報量は多くない
  一瞬で読み終わる
  だが読み終わった後に、何かが残っている
『正解するカド』第10話

作品を読んだあと、何かが心に残る。

僕らが良い作品に触れたときにいつも味わっている感覚そのものです。

それまでの異方のクリエイター達がそんなにも無能ぞろいだったのか、それとも「繭」がAI小説みたいな当たり外れの大きいシステムなのかはわかりませんが、ともかく異方存在はめちゃくちゃ面白い「奇跡の作品」に出逢ったというわけです。それが、この宇宙(以下、作中用語にならって「現宇宙」と呼びます)。

「驚き」を求めるザシュニナは、そっくり僕らエンタメ享受者の「もっと面白い作品を!」「あっと驚く展開を!」という姿勢に重なります。とてつもなく面白い創作。究極の創作。そんなものを観たい、読みたい。ザシュニナの要求は視聴者の代弁そのものです。

そして、ザシュニナは最終話でとんでもない超展開にブチ切れますが、ザシュニナ=視聴者=エンタメ享受者、なので、『カド』を観た視聴者がブチ切れるとしたらそれはある意味正しいのです。ザシュニナも「いやこういう方向の驚きは欲してなかったわこの野郎」と思ってるかもしれませんが、だとしたら彼には ”not for me” な作品だったんでしょうね。自分みたいにめちゃくちゃ絶賛してしまう人でなしの異方存在とかもいてほしい。

面白いのは、この現宇宙という作品に惚れ込んだザシュニナと沙羅花の干渉の仕方の違い。言うなれば、ザシュニナは二次元嫁を三次元に連れてこようとしたけど、沙羅花は自分が二次元の住人になろうとした。まあ、どっちもすごくわかります。オタクの夢ですよね……。沙羅花は「自然主義」、つまりこの作品世界をありのままに楽しみたい派です。

※沙羅花が繭の「管理者」であるということは、この創作物の「作者」と考えることもできます。だとすると彼女の「自然主義」は「原作改変や二次創作は認めない!」という原作原理主義とも解釈できて、ファンサイドからするとなかなか悩ましい感じもしますが、まあそこはとりあえずスルーでいきます。

もちろんこれはかなり乱暴な比喩であって、別に異方存在が僕らと同じような形で文字通り「本」や「映画」や「アニメ」のようなものを楽しんでいると主張したいわけではないです。肉体すらないかもしれませんし、それこそ低次元の人類には想像もつかない存在形態と文化なのでしょう。彼らにとって人類は二次元嫁というのも少々語弊があって、せいぜい「たいそう原始的な生物がいるなー」くらいの認識かもしれません。ただ、異方存在の動機や行動原理がよくわからなかったという方も、実は彼らのメンタリティがかなりオタクそのものだったと思うとしっくりきませんかね? 自分は勝手にものすごく納得しました。 

ちなみに「作品に驚きを求める」「驚きがエンタメになる」という心理は、もしかするとかなりSFというジャンル特有かもしれません。SF界隈には「センス・オブ・ワンダー」という語があります。人の数だけ定義がある概念ですが、認識が書き換えられて世界が違って見えるような、そんな新鮮な驚きのことだと自分は考えています。SFではこの手の「驚きワンダー」がわりと喜ばれますが、他のジャンルだと困惑があるかもしれませんね(例えば恋愛小説だと「驚き」より「感動」や「キュンキュンする感じ」のほうが一般的に求められる気がします)。

本作品の超展開に賛否両論がある一因は、「驚きがエンタメになるジャンル」とそうでないジャンルの感覚の違いなのかもしれないなと思っています。脚本担当の野﨑まど先生の作風の一つに「ものすごいサービス精神」があると勝手に思ってて、わりと「人をあっと驚かせることで楽しませる」方向なのですが、けっこうSF的価値観なので合う合わないが出るのはしょうがないかもですね。

第四の壁を超えて、創作は人の心を動かす

この宇宙が創造物という立場に立つと、人類はその登場人物です。

そしてこれは、作品内の登場人物が、読み手に一泡吹かせる物語です。

自分はこういう、作品内の人物が第四の壁をぶち破って干渉してくる系の話が大好きです。

この手の作品は多々ありますが、『カド』で面白いなと思ったのは、「真道と沙羅花の娘・幸花」が最終的にザシュニナを撃退したことです。作品内の人物の単独行動ではなく、いわば「現実世界の読者」と「登場人物」の「子供」が現実世界に一矢報いたということになります。

登場人物だけでは何の力も持たない。でも、読者と登場人物の相互作用によって生まれた何かは、現実世界をも変えられる。それは新たな創作物かもしれないし、あるいは作品に触れたあとに生じた感動そのものでもいい。

野﨑まど作品のテーマの一つに「創作は人の心を動かす」というものがありますが、そのひとつの形が、この作品なのかなという気がしています。読者が作品世界に深く入り込んで、その世界を愛して生まれ出た何かは、現実をも動かす力を持つ。異方と宇宙の理解が完全なら、第四の壁というすごい隔絶フレゴニクスだって意味をなさない。実際、自分の心は、この作品によって動かされまくっています。超展開に呆然としたり怒りを感じた人でさえ、それは心が動かされた証拠に他ならない。

『正解するカド』Production Note 2の野﨑まど先生の寄稿文に、以下のような箇所があります。

想像力。
それは「あるもの」から「ないもの」を産む力です。
まず実から虚を産みます。産み出された虚はその時点で「あるもの」となり、そこから次の「ないもの」を産んでいくことができます。存在する実と存在する虚から、今はこの世に欠片も存在しない「新しいもの」を作り出す想像力。それはあらゆる地点を通過点に変えて、その先に無限の《量》を保証するものです。
野﨑まど『正解するカド』Production Note 2寄稿文

「実」は異方であり、それは現実世界の比喩。「虚」は「現宇宙」であり、それは創造物の比喩。異方存在(沙羅花)と現宇宙の存在(真道)から、新たな存在(幸花)が産み出される。そして幸花はザシュニナに言う。

幸花「《進歩》って何かわかる? 自分を、《途中》と思うことよ」
『正解するカド』第12話

あらゆる地点を通過点とちゅうに変えて、虚構と現実の相互作用のその先に無限の新しい創作物が続いていく宇宙観。創作者の、視聴者の数だけ無限に生み出される作品世界。「すべての物語」。

創作ってそういうことなのかもな、とぼんやり思うのです。

キャラで観るか、物語構造で観るか

その後もつらつらと考えていたんですが、この作品が合わなかった方って超展開以外にも、終盤でのキャラの扱いもあるのかなーという気がしてきました。花森は言わずもがなですが、主人公なのに最終回で死ぬ真道、突然男女の仲になっちゃう沙羅花、対話でなく物理でフルボッコにされるザシュニナ、伏線ゼロの幸花、空気だった浅野と夏目。品輪博士と言野は良かった。

あらためて考えるとほぼ全員不遇なのですが、自分はあまり気にならなかった、それより世界設定とか物語の構造とかそっちに感動してたっていうのはあるのかなと思いました。もともとあまりキャラに興味を持たないほうで、明確な「推し」はできにくいたちです(ゲームなどでは、より没入感を楽しむために意識的に「推し」を作ることはありますが)。

もちろん、そのほうがえらいとか自分はもっと大局的な視点で鑑賞してるんだとかいうつもりはまったくないです。キャラやその関係性を愛でる感受性が自分に足りてないだけだろうし、作品側も別に血も涙もないわけではなくキャラへの愛情はしっかり描かれてます。単に自分がキャラで観るより物語構造で観るタイプだっただけで、キャラで観るタイプの人はこの記事を読んだところでやっぱりもやもやは残るのだろうな、という気はしました。

こちらの記事も近いことを言っている気がします。こちらは「人間性vs.技術」というくくりですが、自分的には「人間性vs.メタ芸」というイメージか。そう、あれは芸風……

(追記:2022/8/21)5周年記念の後日譚『カド -ゴ-』が発表されましたが、本編超展開の理解の助けとなるような良い短編だったと思います。もやもやしてた人も少しは救済されるといいな。本稿で紹介したような「メタ視点」からさらに踏み込んだ解釈を別記事に書いていますので、よろしければどうぞ!

「ヒトの視点」から問い直す『正解するカド』の衝撃ラスト——オンエア5周年記念短編『カド -ゴ-』を読む|ALL TALE|note

騙されたと思ってこれらの作品に触れてからもう一度『カド』を観てほしい

最後に、いくつか理解の助けになりそうな作品を挙げたいと思います。『カド』の結末にもやもやした方、騙されたと思ってこれらの作品に触れてみて、その上でもう一度『カド』を見直してみてください。きっと違って見えると思います。

乙野四方字『正解するマド』、ハヤカワ文庫JA

言わずと知れたスピンアウトノベライズですが、これを読んで、自分は書きかけていたこの記事を半狂乱になりながら大手術しました。

だって、自分が書きたかったことが、そして読みたかったことが、ずっとずっと完璧なかたちで、全部そこに書かれていたから。

そしてそれがとんでもなくうれしかった。このnoteに書いた自分の解釈の仕方は間違ってなかったのかもしれないな、と勝手に思えたので。自分のこの宇宙でのエキストラ人生が終わったら棺桶に入れてもらいたいくらい、大切な本の一つです。

実のところ、今「あなた」がこのnoteを読んでくださっているのは本当に本当にうれしくありがたいのですが、そんな暇があったらむしろこの本を読むべきなのです。もし「あなた」が『カド』本編に怒りや絶望を感じていたとしたら、このスピンアウトはまさに少し次元の高い斜め上方向からの「異方の目」を提供してくれるはず。そこから見ると、いろいろ許せてくると思うのです。

『正解するカド』シナリオ決定稿(BD Boxの特典)

Blu-ray Boxの付属特典なのでお高いのですが、本編では削られてしまった台詞やト書き・説明がかなりあります。「この台詞が残っていれば後半がもっとわかりやすかったのに」と思うものもけっこうあり、逆に言うと非常に理解の助けになります。このシナリオ決定稿のためにBlu-ray Boxを買った甲斐がありました。

シーンの改変や削除も結構あったようです。例えば9話、水上バスに乗りながら「ここは私達の場所」と沙羅花が真道に訴えるシーン、脚本段階では羽田から離陸した巨大な飛行機が頭上を通り過ぎるはずでした。個人的に、非常に象徴的なシーンだと思うので飛行機は残して欲しかったかなー。

映画『HELLO WORLD』

『カド』と同じく野﨑まど先生が脚本を担当された劇場アニメ作品です。制作が『カド』と同時期に進行していたこともあり、今となっては考えれば考えるほど目指すところが同じなのではと思えてきます。この記事でも書いたような、『カド』で視聴者に十分に伝わらなかった成分をめちゃくちゃ万人にわかりやすくしたのが『HELLO WORLD』なのかなという気がしてます。

自分は『カド』より先に『HELLO WORLD』を観ていたのですが(このへんの記事でひたすら語り散らかしています)、だからこそこの記事の境地に達することができたように思います。正直に言うと、もし先に『カド』を見ていたら、ラストなんだこりゃーという感想にとどまっていたかもしれません。

いわば双子のような作品というか、むしろ『カド』では目的遂行のためにあえてドライに切り捨てた作劇セオリーやら登場人物の幸せやら観客の満足やらに真っ正面からきちんと応えつつ、同じテーマを貫くことにも成功しているので、あらためて「やりやがったな……!」と個人的に思ってる作品です(この視点での『HELLO WORLD』考はまた稿をあらためて書きたいです)。既にご覧になった方も、本稿で書いたような視点から見直してみるとまた非常に楽しめると思います。

* * *

最後に、『カド』の雑多な感想。

  • 「一つ突飛なアイディアを人類社会に投げ入れてその影響をシミュレートする思考実験」的なSF大好きなので序盤から最高でした。『バビロン』はそれが胸糞方面に行っちゃったのですがこちらは科学肯定系なのでいいぞもっとやれー的な感じで観てました。最終的にそれを手放しちゃったのは残念でしたが、人類はいずれ再びそこに手をかける、と思えるラストはよかったです。

  • 観ててすごく『百億の昼と千億の夜』が思い出された場面がありました。これ以上はネタバレになるので言えないですが。

  • 映画『HELLO WORLD』に出てくる「グッドデザイン」というガジェットは『カド』のナノミスハインと同じだと思ってます。自分はこの手の「世界の物理法則を書き換える」装置が大大大好きです(たぶん『トップをねらえ!』のアルゴリズムイメージ推進法で天啓を受けた)。以前からグッドデザインは「バイナリエディタ」なんだろうなーと思ってたら、『カド』脚本にナノミスハイン=バイナリエディタ、と文字通り書いてあって卒倒しました。

  • 慣性制御という語にも弱いので9話はライフがゼロになりました。とまあそんな感じで出てくるSF要素がことごとく刺さるというSFには人生でも数回しか出逢ったことがありません。

  • 6話の引っ越しが完全に『タイタン』だった。あの”TALL TALEほら話”感、最高。

  • 花森が不憫でしかたがない(さすがにこれは怒っていいレベル)

以上、ファーストインプレッションなのでそのうちまたもう1周したいです。


追記:他のレビュー紹介

『カド』のレビューを2つ紹介します。

一つはこちら。自分のこの記事がきっかけで、わざわざシリーズを見直して書いて下さったそうで、本当にありがたいことです。他の野﨑まど作品もふまえてレビューされているので、解像度が上がります。人類孤独なのは……気づかなかったー!

もう一つはこちら。前編・中編・後編に分けて、どこが悪かったのかとどこが面白かったのかをとても冷静でロジカルに、しかしアツく語っていてオタクとしてとても好感が持てます。


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