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新説・都市伝説「女好きの偉人」

最初に言い訳しておかないと面倒くさいのが平成、令和の日本人です。

ですから、ここで特定の国会議員の過ちを肯定する趣旨も否定する趣旨もありません。

ただ、女好きの遊び人であることは、大成する男の資質としてはそれなりの要素であることは否めません。

なぜなら大日本帝国憲法の起草の中心となり初代・第5代・第7代・第10代の内閣総理大臣および初代枢密院議長、初代貴族院議長、初代韓国統監を歴任した近代日本の政治の創生期に最も活躍した政治家、伊藤博文。

黄熱病や梅毒の研究で知られ、ノーベル生理学・医学賞の候補にも何度も名前が挙がり医学において輝かしい功績を残した日本を代表する細菌学者、野口英世。

分野の全く違う二人の偉人ですが、千円札の肖像ということのほかに当代切っての女好きの遊び人だったという共通点があるのです。

【伊藤博文】

伊藤博文の女好きは、もはや当時の政界では誰もが知る話だったらしく、伊藤自身も「良い家も、財産も要らないが、仕事終わりの芸者遊びだけはやめられない」と、公務のあとの芸者遊びがが唯一の楽しみだと公言していて終生、芸者との間に浮名を流しました。

地方に行った際には一流の芸者ではなく、二流・三流の芸者をよく指名していたと言います。

これは、伊藤の持論によると「その土地の一流の芸者には必ず、地元の有力者が後ろ盾にいるので揉め事を起こさないようにするには、一流ではない芸者を指名する必要がある」と言うのです。

40度の高熱の時でも両側に芸者二人をはべらせたというほどで、一人の芸者と寝る時はもう一人を別室に待機させ、事が終わると、もう一人を呼んで川の字になって寝たなどとも言われていて“道楽といえば女だけ”ということを徹底していたのです。

そこで、ついたあだ名が、女が掃いて捨てる程いたために「箒」だったそうです。

さらに、伊藤博文の女好きを象徴する逸話として「日本初の車内での経験者」という話まで存在しました。

そんな、女好きの逸話は伊藤が、まだ長州藩士だった頃、藩からの命令でイギリスに留学した時にも存在します。

伊藤に与えられた使命はイギリスの文化風俗や文の程度を調査することで、ほかの留学生にくらべて資金を多く与えられたと言われています。

伊藤は、その資金をもって現地の色町、いわゆる現在の風俗街に入り浸ります。

確かに攘夷運動の志士達のあいだでは女遊びは盛んでしたが、あまりに度が過ぎたために伊藤の行動は留学生のあいだでも問題になり彼を帰国させるべきだという声が上がったほどでした。

その時、開国論を主張していた伊藤は攘夷派から売国奴として命を狙われるようになっていました。

その際、伊藤をかくまったと言われているのが、当時はまだ17歳の下関の芸者のお梅でした。

伊藤には松下村塾の塾生時代に既に、すみ子という嫁に迎えていましたが、お梅のもとへ頻繁に通い始めます。

お梅が伊藤の子を身ごもったことで、伊藤はすみ子と別れ、お梅と結婚することになるのです。

そして伊藤が兵庫県令(知事)に就任した時に関係を持ったのが、福原遊郭の料理屋兼宿屋の千崎屋の娘のお仲です。

伊藤の女遊びに寛大だったと言われる二人目の妻のお梅でしたが、さすがに、その時ばかりは、伊藤の旧知の友、井上馨に頼みこみ、お仲を兵庫県のとある巡査と結婚させることによって、伊藤とお仲の関係を切らせたと言われています。

日清戦争が始まると、広島城に大本営が置かれ、首相であった伊藤も広島に入りました。

そんな状況において伊藤は広島でも芸者遊びに興じます。

また日清戦争の終結に向けて下関で講和会議が開かれた際も当然、伊藤も下関に入りました。

その講和交渉中、清国側の代表・李鴻章が狙撃されるという事件が起こりますが、伊藤はその報告を受けた際も芸者と一緒だったと言われています。

そして、首相を辞した後も伊藤は、貴族院議員の瀧兵左衛門の名古屋の別荘で過ごしていた際に芸者の桃吉と出会います。

伊藤は桃吉に議会開会中でも頻繁に会い千葉県の成田山参詣には公然と桃吉ともに出かけています。

このように女遊びに興じ続けた伊藤ですが、それは、芸者に留まらず、伯爵婦人にまでにも及びスキャンダルになっています。

それは伊藤が首相だった時で、当時は欧化政策が推進されていて欧米風の社交施設であった鹿鳴館では外国要人の接待や舞踏会が開かれ、皇族や上流婦人が活躍していました。

そこで、起きた事件が「鹿鳴館の華」と呼ばれていた岩倉具視の三女で、戸田氏共伯爵の夫人の極子との関係です。

伊藤は首相官邸で開かれたパーティの席上、極子を庭に誘い出し迫ったのです。

マスコミは、それを面白おかしく尾ひれをつけて報じましたが、事の真相はよく分かっていません。

ただ、事件後、戸田氏共が異例の出世を遂げたため、伊藤が権力を行使して事件の解決を図った、と非難されることになります。

そんな伊藤の女道楽は当然のように明治天皇の耳にも入ります。

伊藤を維新以来の忠臣として信頼していただけに天皇も「少しは慎んではどうか」とお叱りの言葉を与えたそうです。

【野口英世】

伊藤博文には負けるかもしれませんが野口英世もかなりの女好きでした。

ただ野口が伊藤博文より明らかにタチが悪かったのは金にもだらしなかったということです。

野口の父の佐代助は酒好きの怠け者であり、野口家の貧困に拍車をかけた人物です。

後年、野口が恩師や友人たちを巧妙に説得して再三にわたり多額の借金を重ね、借金の天才とまで呼ばれたほどの要領の良さと世渡りのうまさは、良くも悪くも佐代助から受け継いだ才能であったと言われています。

もちろん酒好き放蕩好きな浪費家という点もしっかり受け継いでいますが、女好きは受け継いだものかは分かりません。

野口は20歳のときに医術開業試験を受けるために上京します。

当時は医術開業試験という試験に合格しないと医師として認められないことになっていたのです。

この時、小学校時代の恩師から10円(現在の価値で約20万円)を受け取ります。

さらに、他の人からも餞別をもらい、合計で40円(現在の価値で約80万円)もの大金を持って上京することになりました。

しかしわずか2カ月足らずでお金は底を尽きます。

そのほとんどをお酒、ギャンブル、そして女遊びで使い果たしたのです。

滞在費を使い切ってしまった野口は、当然、下宿からの立ち退きを迫られます。

困った野口は知人の血脇守之助を頼り、寄宿舎に泊めてもらうことになります。

野口は更に血脇にお金の援助も求め多額の援助を受けることになります。

しかしその援助してもらった月15円もすぐに女遊びに使いまくってしまうのだそうです。

そしてその後、渡米することになる野口は留学前に血脇守之助からもらった当時500円という大金をこれまた遊興で使い切ってしまい血脇もさすがに呆れて、しばらく言葉を失ったと言われています。

そこで、野口は渡米資金を得るために斎藤ます子という女性と婚約を交わすのです。

結婚をするつもりのない婚約をして、相手の持参金を使って渡米したのです。

渡米後も野口の元へ、婚約者の斎藤ます子や婚期を逃すことを恐れた斎藤家から幾度も婚約履行の催促が来るのに対し、野口は欧州への留学資金を数千円要求するなどもしていたそうです。

そして「研究で帰れない」など、適当な返事で、これをかわし続け自ら破談にすることはなく、先方から破談されるよう画策していたそうです。

結局、この婚約は破談になり、婚約持参金の300円は血脇が返済したのでした。

まさに結婚詐欺のような話で、ゲスの極みというべきの野口は婚約破棄から6年後に、アメリカ人女性と結婚するのです。

また、そのアメリカ人女性とは別に野口には12年間も研究所で昼も夜も一緒研究に取り組む女性パートナーもいたそうです。

彼女は92歳でこの世を去ったそうですが、最後まで野口との関係は何も言わなかったということです。

【伊藤博文と野口英世】 

なぜ、そんなゲスの二人が千円札の肖像に採用されることになったのかというと、二人はフリーメイソンだったからなのです。

伊藤博文は長州ファイブとして幕末の日本で活躍した武器商人でフリーメイソンとされるトーマス・ブレーク・グラバーの協力を得てフリーメイソン発祥のイギリスへと秘密留学をしました。

一方、野口英世もフリーメイソンと関係深いロックフェラー医学研究所が研究の場所でした。

1904年(明治37年)野口英世24歳の時に、作家星新一の父である事業家の星一の計らいでアメリカ・フィラデルフィアに滞在していた伊藤博文の宿舎を訪ねるとそこで二人は1時間ほど歓談を行ったそうです。

その後、伊藤博文と野口英世はお互い千円の肖像に採用されることになるのです。

信じるか信じないかは、あなた次第です!

ただ揺るぎのない事実としての共通点は女好きだったということです。

「英雄色を好む」という言葉があるように、歴史に名前を残してきた偉人たちに、女好きは確かに多く存在します。

しかし、これほどまでに逸話のある二人には驚きを隠さずにはいられません。







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