映画「花束みたいな恋をした」は絶対に一人で見たい映画でした
映画をみた。
一人で見たい映画と、みんなで見たい映画は違う。
「花束みたいな恋をした」は、世界観やあらすじを見る限り、絶対に一人で見たい映画だった。
ストリーミングになるまで待ち、ようやく見ることが叶った。
大学生の絹と麦が、終電を逃し、出会う。
好きな作家が一緒で、興味のあるものが一緒。
自分だけの世界でコツコツ積み上げてきた「これが好き」「あれが好き」が、なぜか解きほぐされ、自分だけの世界に他人が入り込んでくるというより、二人の世界になっていく。
ずっと前から、私が生きている間、この人はずっと私の横を生きていたんじゃないのか。そう疑いたくなるほど、通じ合う。
通じ合うと、どんどん答え合わせしたくなって、ここもあってる?じゃあここは?
その手もあったのね―――。
確かに、それも正解だわ。
と、一晩中かけて短い人生の答え合わせをする。
神様の存在なんて信じられないけれど、
もし本当にいるとしたらあなたが用意してくれていた人って、この人なんですか?
でないとおかしいですよね、だって人生はカンニングできないもの。
(これは、私が思う絹ちゃん心の声です)
たぶん恋って、渦中の人間はこれくらいロマンチックなこと考えていませんか?
私は結構そういうタイプだ。
絹ちゃんと麦くん、本当に芸術的な感性があって、
見ていて二人とお友達になりたい衝動にかられた。
この本もいいよ
あの映画も最高だよ
この音楽聞いてみて、ライブも行こう
って、誘いたかった。
映画の主人公たちとして、人間として素敵だった。
たくさんデートをして、たくさんセックスをして、
たぶん、「私たち世界で一番幸せな恋人たちだね」ってささやき合っていたと思う。それくらい最強のパワーを二人から感じた。
私はこの映画をみて、「運命の出会い」と「生活」について考えた。
きっとどの時代においても、世界の永遠のテーマだと思う。
絹ちゃんは理想の男性に出会った。
神様が完璧なまでに答えを合わせておいてくれた、運命の人。
すごくすごく、幸せだったと思う。
もちろん麦くんも。
でも、どうしてすれ違ってしまったのか。
それはやはり、「恋愛」と「生活」が延長線上にないからだと思う。
恋愛していると「今日死んでもいい」って思う日もあるけれど、生きていくためには「生活」が必要になる。
生活は、全然ロマンチックじゃない。
絹ちゃんと麦ちゃんがすれ違い始めたのも、生活をするための「仕事」が大きな原因だ。
神様が用意しておいてくれるのは出会いまで。
出会うまでは全問正解でも、出会ってから出題されていく問題の答えが、お互い全然違ったりもする。
そこから先は、一つ一つ一緒に進んでいくしかない。
セックスの相性とかももちろんあるけど、
私はセックスは「生活ごと」するものだと思ってる。
出会ったばかりの頃気持ちがいいのは当たり前。
良く知らない男の生活のことはわからないし。
でもよく知れば知るほど、女はセックス中に、生活のことを思い出す。
今日ああいう言葉をかけられたなとか、
お皿洗ってくれなかったなとか、
なんだか今日は機嫌が悪いなとか、
今日はたくさんかわいいっていってくれたなとか。
同棲していると、よく生活のことも見えてくる。
出会ってから「不正解」が出やすいのって、生活のことだと思う。
もともと体の相性がよくたって、やっぱり不正解ばかりだと、してもいいか、って気持ちにはならない。
結局絹ちゃんと麦くんは、すれ違ってしまった。
「不正解でもいい」っていうのも愛だろうし、
「この人のすることは全部正解」も愛だと思う。
最後麦くんが「もう結婚しようよ」って言ったのも、そういうことだと思う。すれ違う前の正解を信じて、今は不正解でもいいから、正解にしたかったんだと思う。
だけど絹ちゃんにはわかってた。
もう私たちに正解は出せないって。
もう手札が無いんだもん。選択肢がないんだもん。
次の恋愛なんて考えられないけれど、でも、もうここには何もない。
好きではない。嫌いでもない。何もない。
でも、別れれば、素敵な思い出になる。
思い出は死なない。
思い出になれば、永遠に無くならない。
楽しいことだって、たくさんあったじゃん。
この思い出を守るために、別れよう。
何もない今より、ずっと素敵だよ―――。
ファミレスで泣くシーンで、私も号泣した。
感情移入とか疑似体験の涙ではなかった。
私にも、同じようなことがあったような気がした。
もう思い出せないけど。
いろんな別れがあるけれど、皆、幸せな思い出になってほしいな。
そしてできれば、恋人たちには正解を積み重ねていってほしいな。
そして幸せに、だれかを愛していてほしいな。
そう思わせてくれた作品でした。