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0120 大怪獣リヴァイアサンと格闘する

○ 薄すぎる「市民政府論」

  20年前に戻りましょう。

 「個人の尊厳」でなく「個人」そのものが大事だと言い出した以上、それを証明する必要があります。
 そこで、ロックの「市民政府論」を読み直してみました。
 薄い本です。
 すぐに読み終わりました。
 で、「あれっ、こんなのだったかな(汗)」という状態に…。

 ロックといえば「社会契約論」が有名ですし、実際、この本はそれについて書かれてます。
 しかし、この本は何か別な本をベースにして書かれている。
 個人という概念や社会契約論はロックのオリジナルではなさそうだ…。

 実はこの話、政治学の世界では超有名で、調べてみたらすぐに答えが見つかりました。
 個人主義、そして社会契約論の元祖は、ロックではなく、トマス・ホッブズなのです。

 それを知った時、準備委員会の皆様の
「ホッブズですとおぉ?」
という怒号が聞こえるようで、頭がクラクラしました。

 ホッブズといえば、高校の教科書にも出てくる、イギリスの絶対王政を擁護した論客と言われています。
 王への絶対服従を説く考えと、基本的人権が相いれるはずがない。
 うわあ、困った。

 とにかく急いで、ホッブズの主著「リヴァイアサン」をネットで注文しました。
 届いたのは分厚い文庫本4冊。
 戦意を喪失しそうなボリュームです。

 さて、どうするか。
 さしあたり、「リヴァイアサン」って何か を検索してみました。
 すると、旧約聖書に出てくる海の大怪獣だと。
 現代なら、さしずめゴジラかキングギドラ?

 まあ、とにかく、この大怪獣と闘わなければ先に進めない。
 腹括ってやるしかないよなぁ…というのが、当時の心境。

 でも、結論から言うと、この大怪獣との闘いは、とても有意義でした。
 人生、回り道も悪くないもんですね。

○ 大怪獣が必要だったわけ

 ホッブズは、今でいうところの国家権力のことを「リヴァイアサン」になぞらえています。
 なぜ、こんな大怪獣が必要だったのでしょうか。

 ホッブズが生まれ育った17世紀のイギリスは、宗教戦争の時代。
 イギリス国教会ととプロテスタント(ピューリタン)が血で血を洗う抗争を繰り広げた時代です。
 おそらく、イギリスの歴史で一番混乱した時期でしょう。

 表面の宗教対立の下に色々な利害が絡んでいたこともあり、とてもわかりにくい時代です。
 ピューリタン革命とか、クロムウェルとか世界史で習いましたよね。
 議会派のリーダー・クロムウェルが、国王を殺害して自分が独裁者(護国卿)になったり、彼の死後王政が復活したり、、、
 正直、私の知識では正確にご説明することはできません。
 まあ、とにかくこのグチャグチャな状況で、ホッブズが


   「万人の万人に対する闘争」

という有名な言葉を思いついたことは想像がつきます。

 かくして。
「いつまでガチャガチャしとるのだ!」といってホッブズが繰り出したのが、大怪獣リヴァイアサン。
 みな、この大怪獣=絶対的権力に従わんかい-というのがホッブズ先生の言わんとしたところ。

 内乱と革命の時代に生きたホッブズは、国家権力を集中させることによって、混乱状況に終止符を打ちたかったのでしょう。
 

○   ホッブズが君主政治を選んだ理由

  さて、そう考えると、ホッブズの主張の核心は、「中央集権」だったということになります。
 今の日本も、地方自治制度が認められつつあるものの、中央集権ですから、それ自体はそれほど問題のある議論ではないでしょう。
 問題は、なぜ、それが「君主制」でなければならないのか、です。

 この点について、ホッブズ先生は、以下のように説明します。

«君主政治と諸主権合議体との比較»
 これらの三種のコモン—ウェルス(※君主政治、民主政治、貴族政治)のちがいは、権力のちがいにあるのではなくて、それらの設立の目的である人民の平和と安全保障とをもたらすための、 便宜あるいは適合性のちがいにある。そして、君主政治を他の二つとくらべるには、われわれは、 つぎの点を考察すればいい。第一に、人民の人格をになうもの、あるいはそれをになう合議体の成員であるものは、だれでも、同時にまたかれ自身の自然的人格をもになうのである。そして、かれが自分の政治的人格において、共通利益の獲得に注意ぶかいにしても、しかもかれは、かれ自身とその家族、親戚、友人の、私的な善の獲得については、それ以上あるいはそれにおとらず、注意ぶかいのである。さらに、たいていは、公共の利益が私的利益を妨げるようなことがあると、かれは私的なものを優先させるのであって、それは、人びとの諸情念はかれらの理性よりも強力なのがふつうだからである。したがって、公共の利益と私的利益とが、もっとも緊密に結合されているばあいには、公共の利益はもっともおしすすめられる。ところで、君主政治におい ては、私的な利益が公共のそれと同一なのである。君主の財産、権力、および名誉は、かれの臣民たちの財産、強さ、および名声からのみ、生じる。すなわち、どんな王でも、その臣民たちが、 貧しかったり、軽蔑すべきものであったり、あるいは、欠乏や異議のために、かれらの敵とのたたかいを遂行しえないほど弱かったりすれば、その王は富裕でも光栄あるものでも安全でもありえないのである。

岩波文庫 「リヴァイアサン」二巻・55頁

 後にも説明しますが、彼の想定する「個人」は、理性はあるが情念には勝てない、いわば「利己的な個人」です。
 それを徹底すると、こういう結論になるんですね。

 とはいえ、この論理に、うん、そうだねーとはなかなか言いづらい。
 ここにロックが噛みついたわけです。

 さて。
 少し長くなってきました。
 ホッブズの個人・社会契約論については、次回でご説明させていただくことにいたしましょう。

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