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自己啓発と絶望

 現代人は、SNSのおかげでで成功者の暮らし、キラキラした人たち、絶世の美女、美男を見ることができるようになった。そしてそれに伴い、たびたび批判される意識高い系が出現している。
 
なぜ、意識高い系は馬鹿にされるのか。自己啓発は軽くみられるのか。

 意識高い系を批判する言葉として、学びにつながらないような自己啓発本ばかり読んでいる。というものがある。読書家を名乗っていながら、学びにつながらない読書を積み重ねていても意味がない。なるほど、一理ありそうだ。

 意識高い系を肯定する言葉として、批判している人たちよりは努力していて立派である。というものがある。
確かに、批判している奴は意識高い系を見つけるまで、スマホをいじり倒しているような暇な奴ばかりである。その時点で、体たらくな生活を続けている奴とは、差がついている。一理ある。

 意識高い系が目指すものは、成功者である。意識高い系にみられる習慣は、「読書」「筋トレ」「早起き」「ドーパミン製造機の排除」「禁欲」…である。これが規則正しくすることができれば立派な人になれそうである。
 それなのに、批判がつく。否定する人間は、現実逃避をしているのではないか?他人が成功することが妬ましいのか?なんにしろ、批判されるようなことはしていない。批判も批判ではなく否定である。

 人間はイレギュラーな存在を排斥する傾向にある。日本人は特にそうだ。出る杭は打つ。今までの成功者・偉人というものは批判され無理だといわれたことを無視しながら成功者へと上り詰めた。そういう点では意識高い系も同じ素質があるといえるかもしれない。

 自己啓発について

 自己啓発とは、克己復礼に似ているであろう。弱い自分に打ち勝ち、さらに洗練された人間となることを目的としている。自分が持つ夢や目標を達成するためには自己啓発が必要だと思われる。
 自己啓発が、軽くみられるのは、上記に挙げた批判されるような人が情報を発信するからである。これは、あっさりとした結論であるが恐らくそうである。夢を持つ人の足を引っ張りたいという日本人がもつ性質がそうさせたのである。

 人は誰もが成功者になりたい。同じ金持ちなら持っていればいるほどいい。
毎日うまい飯で腹を満たしたい。女だっていくら抱いても抱き足りないであろう。
 自己啓発は、程度があれど誰もがしている習慣であり、成功者となれば洗練されている。
 もう少し、受け入れてみては。そう思うこの頃である。

自己啓発について話してきたが、話の本筋はタイトルにもあったように絶望である。次の記事で絶望と自己啓発にどんな関係があるか、論じていきたい。
 

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