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「JOKER」は舞踏する。

封切りされて以来、話題が沸騰しているトッド・フィリップス監督の映画『ジョーカー』をようやく観に行った。この映画では、主人公のアーサー・フレック(ジョーカー)が踊る。何度も踊る。 そのジョーカーの踊りは「舞踏」を感じさせた。

この映画はダンスをメインテーマとする作品ではない。実際、映画に出てくるダンスの多くが脚本の段階では計画されていなかったとフィリップス監督は語る。ダンスはアーサー・フレック役のホアキン・フェニックスが役作りの一環として踊ったものであり、撮影が経過するなかで加えられたものだと言う。これらの踊りの殆どは即興であり、彼の身体の内から沸き起こった動きだったのだ。そのあたりがこれらの踊りを「舞踏」と感じさせたのである。

私が『ジョーカー』を観に行った理由は、先に観てきた息子が私に強く薦めたからである。これは私の仕事に良い影響を与えるから、と。そこで先週、私はパリ三区の映画館に足を運んだ。音声はオリジナルの英語で字幕はフランス語。なるほど、これは貴重な映画だった。
フランスでもアメリカや日本に負けず興行成績はぶっちぎりに順調である。観てきた人々は話題にし、まだ観ぬ人々は長蛇の列に並ぶ。二度も三度も観に行く人がいる。映画館は常に満員だ。私が観に行った時、館内にいるのは周囲の殆どが英語圏の国の人々、フランスに住む外国人だった。フランス語の記事は興行収入の金額とアメリカ映画の成功が興味の中心。その点、英文の記事のほうが内容に踏み込んでいる。

この記事を書くにあたって私は映画『ジョーカー』に関する文(感想や討論会の動画など含む)を和英仏文で30編以上読んでいる。その中で舞踏を言及されたものは殆どない。そこでこの文では『ジョーカー』の中のダンスだけに焦点を当てます。あらすじやキャストや、社会的影響などの話は多くの人々がもう書かれているので省きます。これを機に「舞踏」に興味を持っていただけたなら本望。

参考資料:「ホアキンのジョーカーはあんなに踊りまくるのか、やっとわかったぜ」☟

これは「ダンス映画」ではないはずだった。

一般のダンス映画はダンスを見せることが前提で、ダンスシーンを作るために設定をこしらえてある。ダンサー志望の若者が夢のために奮闘する話だったり、アカデミックなダンサーがストリートダンスに触れて新しい境地を見出したりする。あるいはシンプルなラブストーリーやコメディに歌や踊りがふんだんに取り入れられ、ミュージカル仕立てにされたりする。

『ジョーカー』はダンスのための映画ではない。元々ダンスは脚本にはなかった 。台本の中での唯一の踊りは小児病棟での道化師パフォーマンスだけだった。これは主人公アーサーの仕事としての踊りなので、他のシーンの踊りとは性格が異なる。

ダンスシーンが増えてきたのは、ホアキン・フェニックスが監督に提案したから。振付師マイケル・アーノルドは多くのダンスビデオをホアキンに見せて彼がダンスを構築するのを助けたと言う。

本作に登場するダンスシーン(動画あり)

1) 道化師のパフォーマンスシーン 
小児病棟で病気の子どもたちを楽しませている。衛生上の理由か病院の白衣を着て、大きな木靴を踏み鳴らしアーサーが踊っている。道化師の赤い鼻をつけた子供や髪が抜けてしまった癌患者の子供がいる。付添いの看護婦さんや父兄らしい大人もいる。ここで鳴らしている音楽 “if you're happy and you know it stomp your feet ” は『幸せなら手をたたこう』の元歌のような歌詞である。アーサーはここでポケットのピストルを落とし、それが原因で道化師の仕事をクビになってしまった。

2)最初の殺人の後、公衆便所に駆け込み「ジョーカー」に目覚めるシーン 。この瞬間は、キャラクターがジョーカーに変身する鍵となるシーンだ。監督とカメラマンとホアキンの三人だけで撮影され、ホアキンは即興で踊ったと言う。ここでの踊りはオーガニックな動きだ。つまり身体の中の氣が流れる方向に重心が移動し、そこで足が動き、腕が動き、自らの意思ではなく何か不思議な力に踊らされているように踊る。そして鏡に写った自分はもう元の自分ではなくなっている。

参考資料「『ジョーカー』の、あのバスルームのシーンは元々は全然違うものだったんだよ」☟

3)ゴッサムシティの自宅近くにある階段の上(このロケに使われたブロンクスの階段は今、観光スポットになりつつあるらしい)本作の前半でこの階段を上る時は辛い日常を引きずりながらとぼとぼと登っていたのに、ジョーカーになってからは爽快なほどにパワフルだ。ロックスターのような傲慢な晴れ晴れとした表情で、腕を振り、足を蹴り上げ、くわえタバコで踊る。熱狂(フィーバー)している。

4)テレビ局バックステージで待機中、アーサーが大野一雄状態でゆらゆらと踊っている。ADが「何やってんだ、おまえ」という顔をしている。これ、シナリオではなく、本当にADの役者がホアキンにぎょっとしたんじゃないだろうか? このシーンの踊りが一番舞踏らしい。「振り付けではない踊り。禊ぎの踊り。

上記以外にもダンスの場面はある。浴室で独りで踊っていたり、ピストルを持った居間での踊り、車のボンネットの上の踊り、ラストシーンの精神病院の踊りなど。リンクが見つかったら追加します。ジョーカーのダンスの動画はかなり消されてしまっています。ビデオは消される前にご覧ください。もちろん映画館で本編を観た後にね 。

アーサー以外の登場人物は踊らない。アーサーは職業道化師であるからアーサーが感情をダンスで表現してしまうのは自然である。この点が通行人やすべてのキャラクターが突然歌い踊り始めるようなミュージカルとは異なる。

アーサーの踊りが舞踏な理由

振り付けを担当したマイケル・アーノルドは暗黒舞踏とは関係のない振付師である。ホアキン・フェニックスが馴染んでいたのはストリートダンスやブレイクダンスで、公衆便所での踊りは、太極拳に近い。階段での踊りやピストルを持った踊り、精神病院の踊りは技術的には60〜80年代のショウダンスに近い。

では、何故これらが舞踏に感じられるのか?

以下の点が考えられる。

1)この映画のテーマが相当暗黒であり、社会不適合者を描いたものであり、反逆精神が感じられるところが舞踏に繋がる。「舞踏は禁治産者の踊り」とは、土方巽が頻繁に口にした言葉。

2) 骨と皮の痩身ににじみ出る禁欲的詩情が舞踏を喚起する。(ホアキン・フェニックスはこの映画のために24kg減量したと言われる)

3)初期の舞踏と60〜80年代のショウダンスとは密接につながっている。

4)アーサーの踊りは本当に内側から出てきた本質的な踊りであり(外側から振り付けられたものではなく)精神性がにじみ出ている。

5)身体障がいや精神障がいの人々の動きは舞踏技術的なソースである。

6)技術的には、この映画に出てくる踊りはすべて容易く振り写し出来る。しかしコピーする意味がない。この「この状況で、この人が、この身体で踊ったものしか価値がない」というあたりが実に舞踏的である。

ダンスは主人公のアーサーが「ジョーカー」へと変怪するときに発動する。

テレビ局の舞台袖での踊りは「ジョーカー」に成る為の禊ぎである。

ホアキンがインスピレーションを得たダンス

ホアキン・フェニックスが舞踏に影響を受けたとされるものは、どこにも見当たらない。インタビューにも記事にも。一方彼は1930年代に人気があったヴォードビルのレイ・ボルガーに特に触発されたらしい。特に『The Old Soft Shoe』の中のダンスに振り付けのヒントを得たと言う。この足幅の広いターンや、フィニッシュのキめはアーサーがマレー・フランクリンのテレビ番組にゲスト出演したときの登場に使われている。

ホアキン・フェニックスはレイ・ボルガーの arrogance(傲慢、誇り高さ、横柄さ)に触発されたと語っている。

「ジョーカー」になっているときの彼はarrogantであるが、普段の彼はちっともarrogantではない。卑屈で小心でコミュ障で、はにかみ屋である。そういうしょぼくれた中年男が満ち足りた自分を取り戻す。取り戻すときにダンスが発動し、驕慢なまでに自信に満ち溢れた舞踏体に成る。元々ダンスには「変身願望を満足させる」という効用があるのだ。それがうまく作用している。しかしその驕慢さは失うものが何も無くなった開き直りの驕慢さである。悲しい。土壇場の尊厳である。

参考資料『ジョーカー』の鍵となるダンスシーケンスについて誰も気付いていないこと」☟

アーサーはなぜ踊るのか?別の理由。

道化師の仕事をクビになった後の方がアーサーは頻繁に踊っている。体を動かすことを職業としている者が仕事を失うと、日常で勝手に踊ってしまうという現象は普通に起こる。そういうシンプルな理由もありえる。

アーサーは派遣道化師をクビにされる時、 雇い主に« I love this job »と言う。他人を笑わせて皆をハッピーにすることを天職としたい。たとえ底辺の芸人であっても。そんなわずかな望みを断ち切るのは酷だ。彼は芸能事務所の階段に掲げられた « Don’t forget to smile » という道化師の金科玉条を« Don’t smile »に変えて出て行く。

多くの人に観てもらいたい映画だと思う。

この映画がこれだけ爆発的な大ヒット快進撃であれば、「舞踏」も大多数の支持を得られるポテンシャルがあるってことじゃないか !

有科珠々





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