自分の食を見直す

私がヴィーガンの考えに触れたのは一年ほど前、タイで出会ったポーランド人の女性が家畜の現状を教えてくれたのが始まりだった。
私は特に動物愛好家でもなければ、肉を食べることに疑問なんて感じたことはない。ペットなんて、ハムスターぐらいしか飼ったことない。
そのハムスターが死んじゃった時もあぁ死んじゃったぐらいしか思わなかった。
わざわざ菜食なんて難しい選択肢を選ぶ必要性も自分がそうする可能性も感じたことなんて全くなかった。

お肉や卵のパッケージに描かれているのびのびとした動物達の絵が、そのまま現実だと盲目に信じていた。そりゃあ殺されるときは痛いかもしれないけど、それまでは自由で幸せな人生なんだろうと。
でもどうやらそうではないらしい。
牛も鶏も豚も、かなり大きなマーケットになっている。つまり、その需要を満たすために、たくさんの家畜を育てないといけない。自然妊娠なんて待っている場合じゃないから、オスの性器を刺激して、精子を注射器にためてメスの子宮に注入する。
牛の場合は子供が産まれたらすぐに母親とは離れさす、近くにいるとお母さんのお乳を飲んじゃうから。そして牛乳は人間が飲むものだから。子供がオスなら仔牛肉に、メスなら乳牛に。妊娠する元気がなくなったメスは、そのまま屠殺工場へ。果たして、そうやって無理矢理何回も妊娠させられた牛の肉は本当に健康なんだろうか?
鶏や豚もほとんど変わらない。
お肉が美味しくなるように、調節された餌を与えられてどんどん太って、隣の動物との距離は一足分。そこまで近いと喧嘩しちゃうからくちばしや爪は取り除く。
屠殺する時は喉から切るか、二酸化炭素で『安楽死』。でも果たして、本当に人道的な殺し方なんてあるんだろうか。
安楽死なら、素早い屠殺なら、人道的として正当化できるんだろうか?
どうして野菜を畑から取ってくる映像は料理番組で出てくるのに、屠殺工場の映像は見ることがないのだろうか?

家畜を殺すための二酸化炭素の排出量は計り知れない。
人間は自分の舌に感じる幸福のために、地球温暖化に貢献している状態になっている。
動物たちを殺す報いが、結局自分たちに返ってきている。
果たして、それは本当にあるべき姿なんだろうか?


人間は肉を食べるように進化してきたという意見もあるだろう。
ライオンやトラなどの肉食動物は、他の動物を殺すために牙や爪が備わっている。親が子供に動物の殺し方を教える。
では人間は?
産まれたままの姿で動物を殺すことは出来ないし、親は子供に殺しをしないように教える。
でも他の動物の肉は食べる?

植物だって生きているじゃないかという意見もあるだろう。
でも、植物には神経系も脳みそもない。つまり痛みを感じない。
あなたが本当に植物の生を気にするならば、今冷蔵庫の中にある美味しいお肉を育てるために必要な植物の量を考えてみよう。
人間一人が必要な植物よりも何十倍も多い。

食生活なんて個人の自由じゃないかという意見もあるだろう。
でも個人の自由が全て正しい事とは限らない。
個人の自由で子供を虐待する人がいれば、個人の自由で女性を強姦する人もいる。
女性は好きだけど、レイプはしょうがない?子供は好きだけど、虐待はしょうがない?
人間は好きだけど、殺人はしょうがない?動物は好きだけど、食肉はしょうがない?
犬や猫を食べる文化はどう思う?
それは非人道的すぎる?じゃあ牛は?鶏は?豚は?
犬や猫との違いは何?

私は、ヴィーガンの考えに触れれば触れるほど、お肉を食べる理由よりもお肉を食べない理由の方がどんどん多くなっていく。
それでもまだまだ自分の欲望に逆らうのは難しくて、週に1回ぐらいはお肉を食べてしまうけど、罪悪感を覚える段階まで来た。
まだ魚に対する現状は知らないから、魚には抵抗を感じないけど、それもいずれは調べるつもり。

1年以上の長期旅行をした後で、今は本当に日本食が恋しい。
お寿司、焼肉、ラーメン、唐揚げ、帰国したら考えられる日本食全部食べたい。
それでも、帰国したらもっと日本の家畜の現状を調べて、屠殺工場の見学なんかもしたい。
お肉を食べるという行為が、本当に正しいのかきちんと考えたい。本当に家畜のマーケットに参加したいか、本当にそれは自分が支持したい供給か。
なぜなら私は知ってしまったから。知識を持つ者には行動に移す責任がある。
自分の食を見直すべきタイミングは今だと思う。

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