見出し画像

開こうとした志、閉じようとする志

大学生になるにあたって自分の価値基準をより強くするためにいろんな人の考え方を知ろうと決意した。
強い価値基準は根拠を持ち、価値に正当性を与える。
この根拠は不確かな自分の中に立つものであるから絶対ではないが、少しでも根拠に大きな確からしさを与えることがよいことだと信じていた。
そのために自分を知る必要があるから、他人や他のものを知ることで自らを変化させながらも自分への理解を深めようとしてきた。

多くの友人と積極的に話すようにして、同じテーマについて考え方がどう違うのか、考えることがどう違うのか、同じことは何かといったことを考えてきた。
同時に高校以前からの友人たちと定期的に話すようにして、今まで属していた環境に基づく自分のうちの要素についても考えてきた。
また本も大量に読むように心がけた。

これらはいい試みだったと思う。
そして、結果が良いものであったかはまだ判別がつかないが、自分の状態が十分に変化したから、次の段階に移ろうと思う。


この試みが私に与えた影響

1,幸せの定義を揺るがした

私は幸せが人生の究極目標であると信じて、私が何を幸せと感じるかを意識して生きてきた。
しかし、仏教上の執着を話題とした授業で、幸せばかりを追い求めている私はその執着によって幸せになることを阻まれることになると気づいた。
また、幸せについて考えることよりも大切なことを見つけていた友人との話を通して、幸せとはそれほど万能のものではないのかもしれないと思うようになった。
そもそも自分の幸せの定義が穴だらけではあるが、そのことについては今の経験が少ない状態でむやみに手を出すべき問題ではないと判断している。
以上のように自分の幸せの像が揺るがされた。

2,言葉の重みに気づいた

言葉は重みをもち、言葉で遊んでいるうちにその人は押しつぶされるのではないかと考えるようになった。
このようなnoteを書いているように自分は言葉遊びが好きなきらいがある。
しかし、経験を持たない人が何かを言ったところでそれは自分にのものにならないものをどうにか手にしようとしているだけではないか。
そのために、経験なるものを手に入れたいと強く感じるようになった。

3,自分の中身が空っぽになった

高校までの自分にはアウトプットの機会が不足していたために、その時に作った自分の軸は独りよがりで意味を持たないように感じている。
その反省を生かすためにもそのための場を設けたわけだが、今度はあまりに過剰でためておくべき分まで流れ出てしまったように思った。
思考の整理学において「発想は発酵のために長時間寝かせることが大事で、その際に期を待たないと半端なために失敗に終わることがある」という内容に感心させられた。
このような体験として、楽しみにしていた芽生えたての計画を人に話してしまったことで楽しみが薄らいでしまったことがあった。
しかしこのことは一方で風通しがよくなったとも言える。
発酵は同時に腐敗でもあるから、絶えず空気を循環させることで常にニュートラルに保とうとしたわけである。
状態としてはよいとは思えないが、経験としてはよいと思えた。

4,変化を好むようになった

輪るピングドラムにおいて「きっと何者にもなれないお前たちに告げる」というセリフがある。
この言葉が文字通りの意味で脳内を駆け回るようになった。
いろいろな刺激を受けたからだろうが、何者かになろうだとか、このnote中に頻出する経験なるものを手に入れようだとか、安定志向だった私はすっかり変わることに取りつかれてしまった。
この変化について、その善悪を考えないといけないと昔からの私は主張しているが、そんなことを考えていたら変われないと今の私は主張している。
すっかりジレンマ状態である。


次の試み

今の自分の中にあるそのイメージは鎖国である。
自分も多くの人も素晴らしいと感じる日本の文化は島国であったことに加えて、鎖国という選択によって大成したと考えている。
それに倣って私も鎖国をすべきではないか。

しかし完全な断絶ではなく、今よりも身の回りの他人の影響力を薄める程度にその規制を留めておく。
そして受け身の状態ではなく能動的になり、自分の選択の影響力を濃くしていきたい。
具体的にはSNSなどを通じたコンタクトや自分の興味に従った深い多量の読書を行いたい。
そうすることで改めて軸を建設していきたい。

言葉でどう取り繕おうと胸の内の何者かになろうとする焦りはそうあるから、それを原動力に進めるところまで歩みを進めたい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?