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行先を投げて遊んだらいいのでは?

文字のフィルターを通さないと割り切って文章をまた書く。
というか、書かないと気分がどうにもならない。
明確な何かに苦しんでいるわけではなく、ただ混乱していて苦しい。


やるべきことをする、というのが出来ない。
やるべきことの私の認識は、やって悪いことは起きない物事という感じなのだが、それをこなすことが出来ない。
部活の仕事だとか、引っ越しの手続きだとか、荷物整理だとか、自炊だとか、免許の勉強だとか。
そういった物事を避けてひたすらスマホに逃避している。

やるべきことが出来ないというのが問題ではなく、スマホにふれてしまうというのが問題なのか?
そうかもしれない。スマホに対する態度を改めるのは一つ大事なポイントかもしれない。


本当にその通りな気がするけど、今のこのもやもやとした苦しみを吐き出してしまいたいので矛先のものを別のものに向けよう。
八つ当たりを始める。

目的地のある会話は良いのかということについて思う。
友人とカフェで色々話してきた。
彼は私の及ばない視野を持っていて、結果的に私が出す話題は悩み相談のように問題意識を提示するようなかたちになった。

悩みを解決するというのは明らかに意味を備えている。
分かりやすすぎるぐらいに、その会話を行う必要性とメリットがそこにある。
だから、その話の広がりが無いように思えてしまった。
今の現実における問題に適用できる以上の意味を持たない、味気ない会話になってしまったように思う。

悩み相談だけで会話をしようとすれば、私と他者の間はそのままになってしまう。
私の問題を相手にも考えてもらって、光明が見えたら私の世界に帰るというシンプルな構図には、私と他者の間の意味不明なやりとりが存在しない。
ただ自分だけのものの見方に閉じこもっている。

要は、会話において何かその場で明確な目的を設定してそこに接近することのみを考えるのは良くない。
では、という対案をわかりやすく示すことは出来ないが、それは息詰まるし、自由を欠いている。
本当に、もったいない。


その場を楽しもうとすることが大切なように思う。
会話においても、あるいはこのnoteを介したコミュニケーションにおいても、LINEにおいても、手紙においても、そのやりとり自体を手段として、自分が楽しくなるためにどうすればよいかを考えればいいのではないか。

先程の悩み相談の事例は、やりとりの中に目的を置いてしまっていた。
でも、やりとりの外に目的を置けたのなら、その会話は自由になれるように思う。
それこそやりとり自体が意味をなさなくてもいいし、完全にコミュニケーションとして失敗してもよい。


なるほど。
枠の外に目的を置き、それを手段とする発想。
ワードセンスのなさを言葉に置きなおす度に自覚するが、ちょっと面白い。
なんか自分が求めていた回答の気配を感じる。

先程の友人に、手紙でのやりとりをどうすればよいかについて相談したら、たまには白紙を一枚入れて送り返してもいいんじゃないと言われた。
そういうこと。


八つ当たりが八つ当たりでなくなってしまった。
当たるも八卦、当たらぬも八卦。

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