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土鍋ごはんを私に結ぶ

土鍋でご飯を炊いていることは、他の人にとって羨ましいことではないらしい。その通りだと思う。

そう言われて、そう思っても、今朝も変わらず土鍋でご飯を炊いた。
引っ越して以来、ずっとそうしている。

理由というのは違う気もするけど、そのことに誇りのようなものを持っている。
他の人がどうでもいいと思っても、私はそれを大切にしたいと思っている。
そのことで満足するのは自分だけだけど、そうしていれば自分を大切にしてあげられる。

丁寧な暮らしという言葉は流行り言葉のようで、少し使いたくない。
もう少し言い換えると、渡される意味と受け取る意味の量が等しい暮らしだ。
身の回りのものや人から渡されるメッセージを、出来る限り逃すことなく受け取っていたい。
刺激を増やしすぎることはせず、好きなものを慈しんでいたい。

そのために、ごはんを土鍋で炊いている。
時間と手間は嫌なものだと思わない。
手をかけてあげる、というような心持ちで台所に向かっている。


気分の影響が果てしなく大きく思えていた頃、料理をしている時間にとても救われた。
ただ鍋の前で煮えるのを見つめている時間や、洗い物を無心で片づけていく時間が、頭の中を考えに支配されずにいられて幸せだった。

今もその楽しさがまだ残っている。
私の無力を噛みしめて、ただありがたいと思っていられる時間が毎朝あることは、朝の憂鬱に立ち向かう上で大きな心の支えになっている。


土鍋でご飯を炊くことを理由付けようとしたけど、どうも相手に伝える文章にはならなかった。
因果関係を目指そうとしていないし、読み返してみても疲れがにじみ出ているように思う。
読んでくださった方、ありがとうございます。

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