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あのとき救急車を呼ばなければ…

先月のある土曜日、義母が救急車で運ばれた。
その日わたしは義母の家で、散髪に行った夫を待っていた。
義母と二人でお茶を飲みながら和菓子を食べ
いつものように義母の昔話エンドレストークを拝聴していた。
ひとしきり喋りまくった後、急に黙り込んだ義母は
「喋り疲れた。横になりたいな。」
そう言ってベッドに入った。
その数分後散髪を終えてやってきた夫は「あれ?」という顔で布団の中の母親を眺め、
「どこか調子悪いのか?」と声をかけた。
義母は、「心臓が痛いような気がする」と小さく甘えたような声で答えた。
わたしには言わないのに、長男にはこうして甘えるんだなあと思った。

医療関係の仕事についている夫は脈を測ったりしていたが、
とりあえず様子を見ようと言う。
わたしは義母を夫に任せて、
頼まれた買い物を済ませようと車でスーパーに向かった。
先月リニューアルオープンしたばかりのモールは駐車場待ちの車が列をなして近づけない。
少し遠いスーパーまで行き、駐車場に車を入れたところでLINEに気がついた。
「救急車を呼んだ」
それを読んだ途端に、ああ、呼んでしまったか…と思った。

そう思ったのは、1年ほど前からずっと胸でじくじく膿んでいる思いがあったからだ。
「あのとき救急車を呼ばなければ」と幾度も繰り返し考えたからだ。

一昨年の冬、わたしは義父のために救急車を呼んだ。
認知症の義父は布団の上で大量の失禁をしたまま動くことができなくなっていた。
義父よりは軽度であるものの同じく認知症である義母は
そんな義父に腹を立てて大声で罵りながら手荒く服を脱がせようと躍起になっていた。
義父は「痛いヨォ。助けてくれヨォ。」と震えていた。
子供に小さい頃読み聞かせした「じごくのそうべえ」の一場面みたいだった。
義母と義父が演じる地獄の場面に怖気付いたわたしは「自分の手には負えない」と早々に判断して救急車を呼んだ。
運ばれた病院では腰椎の骨折と膀胱癌と胆管結石が見つかった。
胆管結石を取り除くための処置の途中、内視鏡が義父の食道を突き破って縦隔に傷をつけた。
数日前までテレビの前で晩酌を楽しんでいた義父は、みるみるうちに身体中に針や管を入れられて、ベッドの柵に手を縛りつけられた。
認知症のため自分の状況が理解できず、常に針や管を抜こうともがき、
それが無駄だということを記憶することもできず、
ただただ虚な目で諦めることなく抵抗を続けた。
それから亡くなるまでの半年間ずっとベッドの上でお酒どころか食事も一度もできず、
途中からは抵抗する体力もなくして義父は死んだ。
コロナの渦中だったから、亡くなるまでの1ヶ月、家族は誰も義父に会えなかった。
義父が亡くなってから1年が過ぎた今でも時々、
「あの時救急車を呼ばなければ、義父は今でも生きていたのかな」と考えてしまう。
義父が生きていればわたしの介護生活は今よりもっと大変な日々だったかもしれない。
でも、人の命やその終末のあり方を左右する判断の重要さに気がついて
何度も何度も「救急車を呼んだのは正解だったのか?」と考えてしまうのだ。
わたしは義父に恨まれてはいないだろうかと、申し訳ない気持ちになるのだ。

救急車で運ばれた義母は結局死ぬような病気ではなかった。
でも、場所が心臓なので集中治療室に入院することになった。
検査室から集中治療室に向かう廊下で突然医師が私たちに、
「それでは、ここで」と言った。
「え?」と戸惑う私たちに医師は、
「コロナのこともありますので、ご家族はここまでです。面会は病院全体で禁止されていますので。」と告げた。
呆気に取られている私たちを置いて、義母のベッドは速やかに運ばれていった。
その時気がついた。
理解した。
コロナ禍で救急車を呼ぶということは、
そのままお別れしても文句は言えないってことなんだ。
苦しんでいる家族の手足をさすることも、
声をかけて励ますことも、
ただそばにいてあげることすらもできずに
一人で病気と戦わせるってことなんだ。
そのままひとりで死なせてしまうかもしれないってことなんだ。

認知症の義母は麻酔が切れると騒ぎ出したらしい。
何度も看護師から電話がかかってきた。
医師や看護師の話には全く納得せず、薬も飲まないらしい。
家族と話をさせろと言って聞かないらしい。
電話口の義母は怒っていた。同時に怯えていた。
ここは病院なんかじゃない。
私を騙そうとしてもそうはいかない。
あんたたちは私がここで死ぬのを待っているんだね。
私がここで死ねばいいと思ってこんなところに閉じ込めたんだね。
私が死ねばいいってことだね。
死んでやるよ!と喚き立てる。
そうじゃないよと説明する私たちの声は義母の脳には届かない。
義母はただ怒りと悲しみをぶつけて電話を叩き切るのだ。

そんな騒動を数回繰り返した後、夫が言った。
「救急車を呼んだのは間違いだった」と。
認知症の義母は自分の病状も苦しかったことも記憶できない。
記憶できないから自分の状況が理解できない。
ただ不当に恐ろしい空間に閉じ込められて自由を奪われた恐怖を感じている。
誰が自分をこんな目に合わせているのかと不安に襲われている。
その混乱が義母に暴言を吐かせるのだ。

義母は武家の筋の生まれであることを誇りとし、「恥より死を選ぶ」というような信念を持った人だった。
夫は「あの母親が今の自分の姿を見たら、きっと殺してくれと言っただろうな」という。
「子供のように騒いで、怒って、周りに迷惑をかけて。そんな年寄りにはなりたくないって言ってたのにな。」という。
夫は一昨年の私のように、
「あの時救急車を呼ばなければ」と考え始めたのだ。
私は、即座に決意した。
夫の判断は間違っていなかったと肯定し続けよう。
私があの時誰かにして欲しかったことを今やろう。
その上で、同じ悩みを共有して、これからのことを考えよう。

義母は「家に帰らせてほしい」と訴え続け、1週間後に退院した。
退院した日の午後には、今朝まで入院していたこともすっかり全部忘れていた。
自分のベッドで昼寝から目を覚まし、
「ああ!今日も元気元気!」と穏やかに微笑んだ。
我が子が自分を恐ろしい場所に閉じ込めて、
母親の死を待っているのだという妄想もすっかり忘れてくれたのだと思う。
こういうところが認知症のありがたいところだ。
怖いことも悲しいことも全部ふわりと霧のように消えてくれる。
その穏やかな顔を見て、このままずっと最後までこの家に居させてあげたいと思う。
でも、まだ私たちにはそれが可能なことなのかどうかもわからない。
在宅医療に関する知識も必要だし、話し合いも必要だ。
義母自身の思いも、できる限り聞き出したい。
できるのかな。
できるかどうかはわからないけど、ひとつひとつ進むしかない。

私が義父のために救急車を呼んだことも、
夫が義母のために救急車を呼んだことも、
義父と義母を苦しめることになってしまったけれど、
それが間違いではなかったといつか思えるだろうか。
そのいつかのために、今日も明日も、
しっかり考えて、しっかり目を凝らして、
進んでいかなきゃな、と思う。

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