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カテゴライズの彼方を目指して!


誕生日を迎えて(二十日ほど前になりますが)今年のキャッチコピーを作った。
20代の頃から誕生日を迎えるたびに
その歳のキャッチコピー(抱負みたいな物?)を作ってきた。
駄作も名作もあったけど、
今年のコピーは
「カテゴライズの彼方を目指して!」
なかなか気に入ってます。

今回のコピーのきっかけになったのはポッドキャスト。
ひと月ほど前から聴き始めた
「ゲイと女の5点ラジオ」だ。

「ゲイと女の5点ラジオ」との出会い

主婦で手工芸の講師でもあるわたしの生活の中で、
家事や手仕事のお供に欠かせないのがポッドキャスト。
お気に入りの番組はいくつかあるけれど
最近続けて聞いているのは
優雅で品が良く、
なのに笑える語り口が心地良いこの番組。

ゲイのしょうちゃんと女のヴァジャさんは
自らを「ネオおばさん」と呼ぶ。


妻でも夫でも母でも父でもなく、若くもなくおばさんでもない。
そんなカテゴライズの隙間にいる人々を称するために
「ネオおばさん」という新しいジャンルを創立し、
「ねえ、みんな、助け合っていこうよ」と語りかけてくれる。

しょうちゃんとヴァジャさんはきっと
大きな顔をしているマジョリティが優位の世間の中で
ひっそり戦うマイノリティのための補給ポイントとして
この番組を始めたのではないかと思う。
わたしはおそらくお二人からすれば番組のターゲット外の人間。
妻でも母でもあり、純正おばさんでもある。
カテゴライズ上はお二人と共通項のない人間。
だけど、わたし、
お二人の会話やnoteで交わされる交換日記の内容に、
深く深く頷くことが度々あるのだ。

そこで考えるようになった。
カテゴライズで隔たれているしょうちゃんとヴァジャさんとわたし。
その間に生まれる深い共感。
(この共感はわたしの一方通行かもしれないけど)
カテゴライズって…なんだろうな。
今のわたしには邪魔かもしれない。
取っ払いたい!


自分のカテゴライズコスプレに気付く


去年次男が大学生になって
わたしはPTAを卒業した。
ものすごい解放感だった。
オフィシャルな場で
「母らしい母」として振る舞う必要がなくなったのだ!

私立の中高一貫男子校は教育熱心な母親が多く
PTAはまるでサークル活動のように活発で華やかだった。
その中で浮かないように、
うまく溶け込めるように、
わたしは関西弁を封印し
ミドル丈のフレアスカートとパンプスを身につけた。
学校に行くときだけのための服がクロゼットを圧迫した。

良い母親とカテゴライズされることを望んで、
自分をその枠にはめる必要性を感じていたんだと思う。
なんでだろう?
なぜかを考えることもなかった。
考える余裕がなかった。
好きでもない服を着て
好きでもない人たちとテーブルを囲んで
さして興味もない話に相槌を打ち
そのカテゴライズの中での立ち位置を死守しようとしていた。

なかなかうまくやってたと思う。
我ながら、才能はあったと思う。

でも、それが自分らしい自分かといえば
絶対に違うと言い切れる。
あれは、コスプレだった。

考えてみれば、JKだった頃からそうだったかもしれない。
流行に合わせて制服のスカート丈を変え、
髪型を変え、リップクリームのブランドを変えた。
自分らしくあることより、
JKらしくあることの方が重要だった。

今までわたしは
JK、女子大生、OL、嫁、母…と
自分の属するカテゴライズを自覚して
それらしい人であろうとすることに疑問も持たなかった。
それらしくあることを自分に課して
自分で自分をカテゴライズにぎゅうぎゅうと押し込めて
本当の自分が何を欲しているかとか
考えたこともなかった。
そんな余裕はなかったな。
マジョリティでいることに必死だったんだな。
自分の役割を演じることに夢中だったんだな。

カテゴライズを超えた共感が力をくれる

コロナ禍に入って、自分の属するカテゴリー内の交流が減った。
その代わり、ポッドキャストやnoteを通じて
自分とは全く違うカテゴリーの人々の思いや考えに触れることが増えた。

で、気が付いた。
カテゴライズを超えた場所で感じる共感はすごいパワーをくれるのだ。

今までママ友や仕事仲間など自分と同じカテゴリーの人としか交流がなかった。
その中で、似た価値観を感じる相手や
共感できる相手はごく少数だった気がする。
「そうそう!」
「わかる!」って頷けることは少なかった。
「なんか、違うなぁ」
「それはないんじゃないの?」って思いながら
モヤモヤして黙ってることの方が多かった。

それなのに、
見も知らぬ人のポッドキャストやnoteの言葉の中に
「そうそうそうなのよ!」とか
「わかるわかるわかりすぎて抱きつきたい!」とか
ぐわっとくる熱い共感を感じることがある。

それは明らかに「快感」と呼べるレベルの喜びだ。

おそらく、共感は
「自分と同じ考えや気持ちを抱いている人がいた!」
「味方が存在した!」
「自信を持っても良いんだ!」という安心感を与えてくれるのだと思う。

さらに言えば、
あまり人には言えないような
隠しておきたいような
自分の深い部分や負の部分で起こる共感ほど喜びは強い。

自分のダメなところ、嫌なところ
わかってるけどどうしようもないこと、
しんどいこと、しょうもないこと
そんなところで共感が起きると
「ああ!わたしだけじゃなかった!」と安堵と心強さを感じるんだと思う。

そしてその共感の相手が
自分とは全く違うカテゴリーに属し
自分とは一生触れ合うこともない場所で生きていて
顔も名前も知らない人だったりすると、
さらにさらにその喜びが大きくなるように思う。
それは、この自分のつまらない悩みやモヤモヤが
自分の属するちっぽけな環境の中だけで生じる固有の案件ではなく
「人類」とか「地球」とかのサイズで存在する
普遍性のある案件なのだと認識できるからかもしれない。


カテゴライズの枠から飛び出そう

53歳になったわたしは、
「カテゴライズ」という枠を脱ぎ捨ててみようと思う。

カテゴライズが実生活の上で有益なことは重々承知している。
ある程度の分類分けが
コミュニケーションや仕事や生活の上で
効率や安全安心を生むことも経験上よく知っている。
それを理解して、
必要な時は使用する。
その上で必要ない時は軽やかにその枠を脱ぎ捨てて飛び越える。
自分を縛る「カテゴライズ」という鎖を
チョキンと切れる大きなハサミを手に入れようと思う。

とはいえ、
愛する家族のために
母や妻や嫁や娘としてあるべき役割を果たすことは大切にしたい。
今まではその役割を果たすことだけで正直精一杯だった。
自分のことを考える余裕はなかった。
本当にしたいことや本当に着たい服なんて考える機会がなかった。
だけどこれからは、
母や妻や嫁や娘という枠を脱いだ
「わたし自身」も大切にしてあげたいと思う。

そして同時に、
自分以外の人と接する時にも
カテゴライズの枠を外して「その人自身」を見つめたいと思う。
カテゴリーで安易に分類して
自分とは関わりのない世界の人だとか
わかりあえないとか、理解できないとか
簡単に決めつけないように努力しようと思う。
もしかしたらそこに
びっくりするような「共感」という快感があるかもしれないし
それによってわたしや相手が
喜びや力を得られるかもしれないから。

カテゴライズの彼方を目指して!

そして、
noteを通して
カテゴライズの彼方で花開く共感の種を蒔きたいと思う。

5点ラジオのしょうちゃんとヴァジャさんは
自分たちの黒歴史やダメな部分を
「もっとさらけ出していこう」
「ここで成仏させよう」と言う。
そしてしっかりさらけ出した後で
「ご容赦ください」と優しく囁く。

それを聞くことでわたしは喜びや力をもらってる。

わたしも50年以上生きてるから
それなりの黒い歴史も想いもある。
さらけ出せることも
さらけ出せないほど洒落にならんこともある。

今までは自分の心や頭の中を整理するためとか
自分が生きて考えてたことを形に残すためとか
自分のためだけにnoteを書いていた。

でも、これからは、
もしかしたらこの文章が
どこかの誰かの目に止まって
「わかるわかる!」とか
「それな!」とか
ちょこっとでも思ってもらえたり
笑ってもらえたり
元気になってもらえたりするかもしれないと
そういう可能性を忘れずに書こうと思う。
そういう可能性を
自分のモチベとして持とうと思う。

カテゴライズを脱ぎ捨てて
カテゴライズを飛び越えて
カテゴライズの彼方で
本当の自分とか
心から頷きあえる人たちに出逢いたいと思う。

だから、
この文章も、
カテゴライズの彼方へ向かって
noteという大きな宇宙に向かって
花咲くかどうかもわからない共感の種を
放り投げるように蒔くつもりで
「公開する」のボタンを押します。

わたしの53歳のキャッチコピーは、

「カテゴライズの彼方を目指して!」

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