La Belle au bois dormant第一章Pas de Six➁
第二節:犬猿の仲
紅茶の香りが鼻を掠めて、クロエは目を閉じ、首を振る。目の前には国賓預言師が神妙な面持ちでこちらを見つめており、又隣には顰め面をした男が自分と同じように紅茶を啜っている。
状況は昨日と何も変わっていない。一晩開けてこの邸に再び集合し、そうして今は更なる詳細を聞いているところだ。
「カドーがアストゥリアス国出身の人達で、インヴィッテがネルーダ国の人たちだって話だけど…」
「ええ」
そうですね、と穏やかに肯定するセリーヌは、今日も薄いヴェールを身に纏い、占い師然とした風貌で対峙している。隣に座るクラウスという男は、クロエが話し始めたのを聞いてちらりと視線を寄越した。
「アストゥリアス国の人達を探すのは良いとして、隣のネルーダ国の人達を探しに行く時はどうするの?」
ここ最近、二国間の対立はより激しいものとなり、戦争の一歩手前まで発展してしまっている。無論、入国に関してもアストゥリアス国からの入国は厳しく監視されており、二国間を自由に行き来できるのは極僅かの限られた者たちだけというのが現実だ。幾らインヴィッテを探しに行く為とは言っても、クロエのような一介の庶民が国を越えられるとは思えなかった。
「それは、クラウスにお任せ下さい」
ね、と同意を求められ、クラウスは静かに頷いた。その紫色の瞳を見て、クロエは『ああ』と納得したような声を出す。
「そうよね。あなたはネルーダ国出身だわ」
「…ああ」
ネルーダ国出身の証である紫色の瞳が、きらりと輝く。青い瞳の人々が集うアストゥリアスに居ては暮らしにくいだろうその瞳色は、けれど珍しいからこそ酷く綺麗に見えた。
「それにクラウスは元々ネルーダ国に住んでいらっしゃいます。今回は私がこちらまで呼びましたの」
「…は?」
あっけらかんと口にされたそれに、クロエは思わず聞き返す。ネルーダとアストゥリアス間での出入国は厳しく管理されている筈だというのに、目の前の妙齢の女性は何を言っているのだろう。
「それって、あなたが国に許可を求めて、それが通ったということ?」
「ええ、その通りですわ」
ふふ、と何故か嬉しそうに笑みを零す目の前の女性の凄さを、クロエは改めて思い知る。忘れていたわけではないが、彼女が6年前の戦争を休戦へと導いた国賓預言師であるのだとここで初めて実感した。ちらりと隣を盗み見れば、クラウスはさも当たり前とでもいうような顔で紅茶を啜っている。
「クラウスには一度ネルーダ国に戻って、日々の暮らしの中でインヴィッテを探して頂きます。二国間のあなたの出入りは、私と同じようにいつどんな時でも、自由です」
「…解りました」
クラウスが頷くのと同時に、セリーヌはクロエへと向き直る。
「そしてクロエ、それはあなたもです」
「…え?」
話題がクラウスに移ったものだから呑気に紅茶を啜っていたのだが、急に彼女の視線を浴びてクロエは大きく目を見開いた。国賓預言師は優しく目を細め、少しだけ困ったように首を傾げている。
「先程の説明と矛盾していると思われるかもしれませんが、あなたも私やクラウスと同じく、二国間の出入りは自由です。ですので、探そうと思えばネルーダ国にいるインヴィッテのことも、探すことが出来ます」
「…は?」
突然の言葉に上手く思考を整理出来ず、間抜けな声が出る。隣の男から鋭い視線を注がれているのを感じて睨み返すと、セリーヌはふふ、と笑みを零した。
「ですが、あなた方が2人で1人を探すより、それぞれがそれぞれの国で人探しをする方が、より効率的だと考えました」
「……」
「2人揃っていなくても、インヴィッテやカドーを探すことは可能なのですか?」
至極真面目な質問を投げかけたクラウスの表情は、真剣そのものだ。クロエはこれ見よがしに溜息を吐いて、しばし2人のやりとりを見守ることに決めテーブルの上で腕を組んだ。
「ええ、十分に可能です。古い文献においても、オーロラ姫とデジレ王子が出遭った時には既に、それぞれのもとにカドーとインヴィッテが集結していたとありますから」
柔和な表情を崩さないままそれに応えるセリーヌの瞳が一瞬きらりと煌めいた気がして、思わず何度か瞬きを繰り返す。思えば彼女の瞳はアストゥリアス人であることを示す青色なのだが、何故か光の加減で金色にも見えなくもない。そういえば以前どこかで耳にしたが、彼女は異国からの逃亡者だという噂もあるのだという。無意識に熱い視線を注いでいたのだろう、セリーヌはちらりとクロエの方に視線を寄越してから、再びクラウスに向き直った。
「私は女神様より、あなた方の仲間を探す手助けをし、導くようにと言われています」
「…それは、お告げということでしょうか」
「ええ、ある意味ではそうですね」
セリーヌの前にも紅茶が用意されているが、彼女は一向に口をつけようとしない。話し始めて大分時間が経っているから、すっかり冷め切ってしまっているだろうとクロエはぼんやり考える。
「俺は、役目を全うすることに異論はありません。デジレ王子の生まれ変わりだということは、まだ受け入れられるとは思いませんが」
「…完璧な生まれ変わりかどうかは、私にも解りかねます。けれどあなたは、彼の血縁。少なくとも他の方よりは、彼に近いところに在るとは思いませんか」
「……え?」
のんびり紅茶を啜っていたが、耳に入って来たセリーヌの言葉に思わず声を挙げてしまう。その声に、クラウスとセリーヌがこちらへと振り返った。
「あなた、ネルーダ国の王子の血縁なの?」
「………」
国賓預言師が発言した内容はとどのつまり、彼自身も王子だという意味になる。信じられずにクラウスを見つめると、彼は真剣な表情のまま何も答えなかった。クロエは戸惑ったようにセリーヌへと視線を向ける。
「ねぇ、どうしてデジレ王子の生まれ変わりは一国の王子なのに、オーロラ姫の生まれ変わりが私なわけ?」
国賓預言師の言葉だ、信じられないとは言えないが、それでもそのまま素直に言葉通りを受け取ることが出来る程クロエは純粋ではない。目の前の冷め切った紅茶のカップを脇に押しやり、テーブルをどん、とひとつ叩いた。
「アストゥリアスにだって王女様が居るじゃない。彼女が生まれ変わりではないの?」
「…私から申し上げられることは、あなたこそがオーロラ姫の生まれ変わりということだけですわ」
静かに、セリーヌは繰り返す。その瞳が再び金色に光った気がして、クロエは思わず怯んだ。
「………」
黙り込むと、クラウスの視線を感じて何故か苛々としてしまう。彼が王子だというなら、こんなに理不尽なことはない。この部屋に居るのは国王ですら尊ぶ国賓預言師と、いずれ一国を手中に収める王子なのだ――確実に、盗賊の自分がいるべき場所ではない。
「クロエ」
拗ねたように俯いていると、低い声が名前を呼んだ。それがクラウスのものだと気付いて、余計に腹立たしく思う。絶対に顔を上げたりなんかしないと思っていると、もうひとつの柔らかな声が自分を呼んだ。
「クロエ、顔を上げて下さい」
「……何よ」
セリーヌの柔らかな声はどこまでも優しいが、有無を言わせない。仕方なく顔を上げると、彼女は何故か泣き出しそうな顔で優しく微笑んでいた。
「私は、あなたがオーロラ姫の生まれ変わりであると、世間に広めるつもりです」
「…なッ……!」
突然告げられたそれに、言葉を失う。そんなことをされてしまえば、『仕事』が出来なくなってしまう。日常生活を城下で送ることも難しくなるだろう。アストゥリアス国にはまだ女神信仰やオーロラ信仰が強く根付いているのだから、王族だって良い顔をしない筈だ。
「私が女神様から託された使命は、あなた方を支え、導くこと。出来る限りのことはさせていただきます。それで少しでも早く、カドーとインヴィッテが揃うのなら」
「………」
「残された時間は、そんなに少ないのですか」
クラウスの言葉に、クロエはハッとする。そういえば事の根本は『黒き魔女』の目覚めが近付いているという危機で、それがいつなのか、いつまでに仲間を集めるべきなのかはまだ明示されていない。
「私たちがもし、その『黒き魔女』とかいうものの目覚めまでに間に合わなかったらどうなるの」
「……」
可能性は十分にあり得る。ただでさえ特定出来ない誰かを国中探し回るのだ。もし探し当てたとして協力を拒否されれば、それはそれでまた時間を要することになる。
「そうなれば、世界は崩壊へと向かうでしょう」
呆気ない程簡単に、セリーヌはのたまった。クロエは息を呑み、クラウスを見つめた。彼は驚きこそしないが、唇を引き結んでじっとセリーヌを見つめていた。
「けれど、そうならない為に私が存在するのです。具体的な日付は解らずとも、魔女が目覚めるまでに、あなた方はカドーとインヴィッテ全員に出遭えるでしょう」
「…全員集まったら、どうするの」
頭の中で疑問が次々と浮かんでは消える。そもそもどうやって見つけるのか、出遭ったとしてどうやって『彼ら』だと認識するのか。どうやって説得し、ついてきてもらうのか。
「18人揃って初めて、黒き魔女の封印された地が示されます。皆でそこに向かい、目覚める魔女の封印を行います」
「つまり、揃わないことにはどうにもならないってことね」
セリーヌの頷きに、溜息が漏れた。18人が揃う――つまり、自分とクラウスを抜いてもあと16人を集めなければならないということだ。途方もない話だとつくづく感じてクラウスを見やれば、クラウスは『そうか』と何故か納得したように頷いていた。
「魔女の封印された場所は、選ばれた俺達にしか解らない仕組みになっているのですね」
「ええ。しかも、全員の力が無ければ出現しません」
「それで今まで解らず仕舞いだったのか……」
クラウスの言葉をよそに、クロエは首を振って苛立ちを紛らわせながら、セリーヌを睨むように見つめた。
「それで?」
「……?」
不思議そうな顔をしている国賓預言師に、尖った声で言葉を投げつける。
「あなたは国賓預言師。彼はネルーダ国の王子。勿論、国や世界の為に働くのは当たり前よね?でも私は一介の盗賊なの」
「…盗賊!?」
隣でクラウスが叫んだが、それを無視してクロエは続けた。
「『黒き魔女』が封印されることで、あなたたちには確実なメリットがある。あなたは国賓預言師としての地位を確立した予言を現実のものとし、彼は自国の心配の種をひとつ減らせるわ。でも私には?」
言葉を紡ぎながら、胸の中を黒い靄が覆い尽くすような感覚に襲われる。記憶の底に閉じ込めた暗い思い出が蘇って来るような錯覚に囚われ、思わず語尾がきつくなる。
「私はこの国が大嫌い。心から、無くなって欲しいと思っているわ。人々を犠牲にして成り立った平和なんていらないの」
「……」
「欲しいのはお金だけよ。世界の役に立てたからといって報酬がないんじゃ、そんな途方もない仕事、受けられないわ」
国賓預言師に向かって侮辱罪にも問われかねないような発言に、隣から向けられる視線が鋭くなるのを感じたが、怯まない。無粋だろうが無礼だろうが、これがクロエの本心だった。
「その点に関しては、ご安心ください」
「…?」
セリーヌはクラウスとは違い、クロエの言葉に不快な表情など一切見せず、むしろにっこりと微笑んだ。
「二国間の休戦協定にはこうあります。『魔女を封印せし者たちには、その働きに対し各々に10万タシィの報奨金が贈られる』」
「…え、タシィって……」
聞きなれない単位に頭がついていかず、聞き返してしまった。報奨金として18人それぞれに、10万タシィ。国民の平均年収は約360エクスで、10000エクスが1タシィだ。
「つまり、一生遊んで暮らせます」
ふふ、と笑みを零したセリーヌに、開いた口が塞がらない。それはクラウスも同じだったようで、『10万タシィ…』と呟いたまま動かなくなっていた。
「クロエ。あなたが国を憎んでいることは知っています。だからこそあなたに、『オーロラ姫』としてカドーを集めていただきたいのです」
「…どういう意味?」
「カドーを集めることは、国を知ることにも繋がります。あなたは城下で生まれ育ったと聞いていますから、城下以外の町や人々のことを見る良い機会と捉えてはどうでしょうか」
『聞いています』ということは、クロエの生い立ちも把握した上での発言なのだろう。そう感じて、口惜しさに下唇を噛みしめる。
「流石、預言師様は何でもご存じってわけね」
「…ッ…君は、さっきから黙っていればなんて口の利き方をするんだ!」
悔し紛れの一言に反応したのは、セリーヌではなくクラウスの方だった。国賓預言師になんという口の利き方を、とブチ切れた彼に、クロエは意地の悪い笑みで返す。
「大変失礼致しました、『殿下』。私めは盗賊ですので、殿下と違って口の利き方がなっておりませんの」
「…っ……」
嫌味たっぷりでそう告げると、クラウスは目を細めて睨みつけて来たが、何も言い返しては来ない。クロエも応じるように睨み返したが、近くで聞こえた笑い声に思わず国賓預言師へと振り返った。
「ふふ、お2人とも、本当に仲がよろしいのですね」
「「…は?」」
突拍子もない言葉に気の抜けた声が被って、慌ててお互いを睨み合った。そんなところもツボにはまったのだろう、預言師はクスクスと笑みを零す。
「それでは…お2人とも使命を全うして下さるということで、間違いありませんわね?」
確かめるように問われた言葉に、クロエはハァ、と溜息を吐いて頷いた。
「良いわ。そんな大金が手に入るなら、意地でも集めてやるわよ」
「だから君はどうして…っ!」
その一言に反応したクラウスと再び睨み合い、結局話し合いはその後しばらくかかるのだった。
クロエはセリーヌの邸から出ると真っ直ぐに家への道を辿った。夕方に差し掛かろうという時間帯、仕事から帰る人々で町は賑わいを見せている。思わずいつもの調子で盗みを働きたくなったが我慢し、商業区を通り抜けて数分足らずで盗賊のアジトへと帰り着いた。
「あ、クロエ!」
玄関に足を踏み入れた途端、ぱたぱたと駆け寄って来る少年の姿に気付く。無邪気な笑顔を浮かべて抱き着いてきた彼を抱きしめ返して、クロエもにっこり笑いかけた。
「おかえり、クロエ!」
「ただいま、マエル。今日も元気いっぱいね」
マエルと呼ばれた少年はまだクロエの胸の辺りまでの身長しかなく、この盗賊団の中では唯一クロエより年下だった。いつ頃だったか、クロエが路地裏で倒れていた彼を見つけ、介抱したことがきっかけで今ここに居る。クロエにとっては可愛い弟そのもので、癒しの存在だった。
「今日も沢山獲物がとれたんだ!ボスも喜んでくれた!」
「そう、良かったわね」
ボスに成果を見せた、ということは今日はもう『父』は邸に戻って来ているのだろう。そこまで考えて、クロエはマエルの頭をぽんぽん、と撫でてやりながら『そうね』と呟いた。
「お父様がもう帰っているなら、お話ししないと」
「何かあったの?」
「ええ、とんでもない仕事が舞い込んで来たの」
まだ秘密よ、と人差し指を唇に当てて見せると、マエルは素直に『わかった!』と頷いて見せる。クロエは『ありがとう』ともう一度頭を撫でてやってから、『父』のもとへ向かうべく彼に背を向けた。
「おぉ、お姫様のお帰りか!」
「今日は遅かったな!クロエ」
リビングには何人かの『家族』がおり、夕方だというのに既に酒宴が始まっていた。グラスをこちらへ傾ける者や、ジョッキ片手に大振りに手を振って来る者など、クロエに対する反応は様々だ。
「ただいま。今日は変なことに巻き込まれちゃって、全然収穫なしだったわ」
「それは災難ね。フルーツでも食べて、元気出して」
近付いて来た仲間の1人が差し出してきたフルーツの盛り合わせを受け取ってお礼を言うと、『パパはどこか知ってる?』と皆に向けて尋ねる。数人の仲間たちはそれぞれ顔を見合わせた後、『いつもの場所じゃないか』と答えた。
「確かにそうね。行ってくるわ」
夕方のこの時間帯、邸に居るのであれば、『父』は必ずあの場所に居る筈だ。目指す場所を決めて、クロエは広い邸から出て、中庭へと足を向けた。夕日に照らされた庭には色とりどりの花が咲き誇っているが、その奥へと進むと、庭の先にはぽつんとひとつあばら家が立っている。
「……」
花々の香りのする空気を吸い込んで、あばら家のドアを開けた。そこにはやはり盗賊団の長が1人、ドアに背を向け静かに佇んでいる光景がある。
「…帰ったのか」
穏やかな低い声音に、クロエは『たった今ね』と返した。彼が気配だけで『娘』を認識出来ることに驚きはしない。古参の仲間によれば、彼は一時期世界にその名を轟かせた大悪党だったというのだから、人の気配が読めることなど呼吸するのと同じくらいに容易いのだろう。
「それで、引き受けたのか?」
「…パパは、どういう申し出だか知っていたの?」
背を向けたままの『父』に問うと、彼はゆっくりと振り返り静かに微笑んで見せる。それが肯定だと解って、クロエは頬を膨らませた。
「どうして言ってくれなかったの」
「君が自分で気付くと思ったからさ」
噴水広場で彼女が待っているということも、自分がオーロラ姫の生まれ変わりであり、だからこそ彼女に生き写しなのだということも、彼は最初から知っていて、朝『娘』を送り出したのだ。怒ったようにその厚い胸板を叩くと、彼は声を挙げて笑った。
「クロエ、私は昔から君に言っていた筈だ。君が『特別』なんだって」
「…それは、この盗賊団の中でという意味だと思っていたわ」
マエルを除けば、盗賊団の面々は皆クロエよりは大分年上だ。一番近い年で8つ程離れていた筈だから、幼い頃は母や父、姉や兄が何人も居るような状態だった。どんな我儘も聞いてもらえたし、いつだってクロエが優先された。寂しさなんて微塵も感じさせない、優しくて温かな空間だ。
「確かに、君はこの組織の中では『お姫様』だね。私の『娘』でもあるし」
『おいで』とその大きな手を差し伸べられてから、クロエはずっと彼の傍に居る。盗賊団の中のお姫様として、皆と同じように盗みを働き、生活を立てて来た。それは自分を拾ってくれた彼への恩返しであり、限られた時間を無駄にしないという彼との約束でもあった。
「だが、それ以前に君が特別な子だと、私にはすぐに解ったよ」
「…どうして?」
古びた椅子に座り込んだ『父』に手招きされ、そのまま彼へと近付いた。優しく頭を撫でられていると、幼い頃を思い出して何故か泣きそうになる。それが今は亡き本当の『父』を思い出させるからなのだと思うと、胸が痛んだ。
「君の瞳が、あまりにも澄んでいたからね」
優しく笑う『父』の瞳は、深い藍色をしている。クロエの瞳は澄んだマリンブルーで、アストゥリアス国民の中でも特に高貴とされる瞳色をしていた。現在ではそんな階層は存在しないが、昔は瞳色が空や海の色に近ければ近い程、地位が高いとされていたらしい。そしてその中でもクロエの瞳色は希少で、現在では王族しか持ち得ないと言われる珍しい色をしていた。だからこそその瞳の色こそがクロエにとっては自身の外見の中で、何よりも疎ましい存在だった。
「初めて会った時に、すぐに思った。『この子は私が守らなければ』と」
「……」
『父』と初めて会った時、クロエは絶望の淵にいた。やっと息をしているような状態で、殺戮の限りを尽くされた家を逃れ、1人路地に座り込んで泣いていた。突然両親を目の前で殺され、何も解らずに国への憎しみを募らせ、同時に哀しみに沈んだ。この世界に自分は1人きりなのだと感じるのが怖くて、どうしたら良いのかも解らずにただ泣くことしかできなかった。そんな自分を見つけてくれたのが今の『父』だ。
「それで、君はその仕事を受けることにしたんだね?」
「…渋々ね」
そっぽを向いて答えると、クロエは1枚の封筒を彼に差し出した。それが国賓預言師からのものだとすぐに悟ったのだろう、『父』は笑みを浮かべて、『ありがとう』と受け取った。
「いつからセリーヌと知り合いなの?」
「…さぁ、いつからだっただろうね」
曖昧な切り返しをして封を開けると、父は預言師からの手紙を読む。しばしの沈黙の後、『そうか』と呟いて、彼は手紙をそのままクロエへと渡してきた。
「『クロエはこちらで預からせていただければと…』!?」
書いてある丁寧だが有無を言わせない文面に、思わず叫ぶ。目の前の『父親』は怒れる娘を見ても酷く冷静なまま、口を開いた。
「クロエ。近々彼女から、オーロラ姫の生まれ変わりが君だと国民に向けて発表されるだろう。そうなれば、どちらにせよ君は此処には住めない」
「何よそれ…そもそも、どうして公表する必要があるのよ!」
怒りに任せて壁に拳を打ち付けると、流石に見かねたのかその腕を彼が掴んだ。痛くない程度の強い力で、けれど眉を下げて悲しそうな顔を作っている。
「落ち着きなさい。そして、よく考えるんだ…何故公表するべきと彼女が判断したのか」
深みのある低い声音はどこまでも冷静で、クロエは腸が煮えくり返る思いをしながらも深呼吸を繰り返し思考を巡らせる。公表するメリットを思い浮かべて、唇を噛んだ。
「…公表すれば、国民は喜ぶわ。『黒き魔女』の目覚めに怯える生活を送らなくて済む」
「そうだ。君が皆の希望になり、そして証明になる。オーロラ姫信仰の正当性を示す鍵が君なんだ」
「………」
女神信仰に異を唱えた少女は『黒き魔女』となり、世界に禍をもたらした。その魔女を封印したのがオーロラ姫で、アストゥリアス国の民は皆彼女を尊び、神格化している。実在した人物であるにも関わらず信仰され、今では女神信仰よりもオーロラ姫を信仰し、崇め奉る人々の方が増えていた。そしてそれは『黒き魔女』に対する恐れがそうさせているのだと一部の人々は分析し、彼女への信仰を批判していた。そこでクロエが『オーロラ姫の生まれ変わり』だとしてカドーを集めると宣言すれば、信仰を尊んでいた人々は歓喜し、それを批判していた人々は一旦様子を見る為に影を顰めるだろう。声高に叫ばれる批判が一時的に収束することで、国からは頻発していた宗教に関する争いが無くなり、より平和な情勢へと変化する。
「…そんなの、一時凌ぎでしょう」
「だとしても、君はその『鍵』に選ばれた。引き受けると決めた以上、彼女の言う通りにするべきだ」
『解るね?』と諭されるように手を握られ、そのまま掴まれていた腕は解放される。クロエはまるで子どもの頃に戻ったようだと思いながらも、拗ねたように頬を膨らませた。
「だって、嫌だわ」
「…?」
「パパや、皆と離れなくてはならないのは、嫌…私の家は此処なのに」
俯くと、サラ、と薄茶の髪が揺れる。金髪の入り混じった不思議な色の髪はクロエの自慢で、幼い頃から腰までの長さを保っていた。髪に隠すようにして拗ねながら、何故か涙が滲んで視界が曇っていくのを感じる。
「そうだね。私も、君と離れるのは寂しく感じるよ」
「どうしてここに居ては駄目なの?見つからないように上手くやれば、きっと…」
「…それは無理だと、君も解っているだろう」
大きな手に優しく頬を撫でられ、その手に誘われるように顔を上げる。泣いてはいないが瞳いっぱいに溜まっている涙を見て、『父』は酷く苦しそうに目を細め、それから愛しいものを見るように温かな目をして微笑んだ。
「私は君の『父親』として、『娘』をいつ外に出しても恥ずかしくないように教育をしてきたつもりだよ」
「…そうね、なかなかのスパルタ教育だったわ」
盗みは自分が、『家族』を手伝いたいと始めたことだった。本来はこの邸の中で、雇われた家庭教師に厳しく教育をされていただけの身だ。盗賊としては必要のない知識を蓄えさせられ、一通りのマナーも覚えている。勉強の時間があまりに嫌いだったから、物凄い早さでカリキュラムを進め、本来ならば現在でも学習中であっただろうに、2年程前に必要な教養は全て身に付けていた。『父』は優しいけれど教育に対しては酷く厳格で、どんなに止めたいと懇願しても決して許してはくれなかった。
「君が外の世界に出てみたいと思った時に、いつでも出て行けるように…1人でも、生きていけるように」
「…パパ……」
深い藍色の瞳が、じっとこちらを見つめる。目尻から零れ落ちた涙を、温かな指が優しく拭ってくれた。それだけでクロエは、16歳の少女から彼と出会ったばかりの10歳の子どもに逆戻りしてしまう。彼に甘えることで寂しさを紛らわし、悲しみを和らげていった幼い自分が戻って来てしまうのだ。
「別のところで暮らすと言っても、同じ城下町だ。望めばいつだって帰って来ることが出来るし、いつでも立ち寄ることが出来る」
「……」
「行って来なさい。君になら、この仕事は全う出来る筈だ」
温かい言葉に、溢れ出る涙が止まらないまま目の前の『父』に抱き着く。今生の別れではないと解っているし、自身がもう16で、大人に近い年齢に在ることも十分承知の上だが、それでも彼と一時的であれ離れて暮らすことは不安でしかない。それでも、彼が背中を押してくれるのならば、『娘』はそれに応えずには居られないのだ。
「…解った」
震える声で呟いたクロエの額には、『父親』から愛の籠ったキスが贈られるのだった。
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