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スーパーひいばあちゃん

昨日よりつづいていた吐き気を伴う頭痛がすこし落ち着き、いつもの偏頭痛程度の頭痛になったのでシャワーを浴びた。

曾祖母に倣い、いつ、なにがあってもいいように。



わたしの曾祖母はわたしが中学一年生になったばかりの春に亡くなった。それが人生で初めて触れた身近な人の死だった。



殿様(といっても大政奉還してから何十年も経った後の殿様だけれど)のお家にお嫁に行く話があったくらい器量好しの母の元に生まれた曾祖母もまた器量が好く、しかも当時としては珍しい一人っ子で、それはそれは大切にされて育ち、身長も160cmくらいあり、若い頃はとても気の強い(ように見える)女だったらしい。

どういう馴れ初めで曾祖父と出会ったかは知らないけれど、やがて祖父が生まれ、その下に三人の娘も生まれた。

第二次世界大戦で曾祖父が戦死して以降、どれほどの地獄が曾祖母たちを襲ったかは、想像を絶する上に本題から逸れるので割愛する。

しかしそれでも、土地を売り、小さな店を営み、四人の子供たちを女手一つで育て上げた、スーパーひいばあちゃんである。



わたしの記憶にある曾祖母は腰が曲っており小柄な印象で、耳の遠さからいつも声が大きく、遊びに行くとお菓子の入っている箱から、個包装された小さな四角いお菓子をくれた。

わたしはそれが雷おこしという名前だと曾祖母が亡くなるまで知らなかったけれど、わたしはそのよくわからない四角いお菓子の白くて甘いやつが好きで、箱をほじくって選んで取っていた。

まだ小さかった弟がトミカで遊ぶのを、横でにこにこしながら相手していた曾祖母のことも、わたしはよく憶えている。でも兄弟はわたしとは違い、物心つくのが遅かったので小さい頃の記憶がほとんどなく、曾祖母のこともあまり憶えていないらしい。すこしさみしい。

曾祖母はわたしが生まれた時点でかなりの高齢で、記憶の始めから終わりまでものすごくおばあさんだった。

シャキシャキ歩いているところは見たことがなく、いつもシルバーカーを押して町を散歩して、誰かに会いに行って、なにかをしていた。



曾祖母は母方の実家に住んでいたため、兄弟やわたしがミニバスで忙しくなる前は2週間に1回くらいの頻度で母方の実家に一泊しに通っていた。

曾祖母のとなりの部屋で寝て、朝は浄土宗だか浄土真宗だかの曾祖母がとなえる朝7時の般若心経で目が覚める。

朝が弱い上に無宗教のわたしにはその行為が到底理解できなかったし、もっと寝ていたかったけれど、何十年も毎朝欠かさず仏壇に手を合わせつづける曾祖母に執念じみたものを感じ、それをつづけることで曾祖母はこれまで強く生きて来られたことが窺えられると、「うるさい」とは、どんなに幼いころでも絶対に言えなかった。
 
「かえるねー!またくるねー!」と部屋にいる曾祖母に大声で話しかけると、帰る時にはいつもティッシュに包んだおこづかいをくれた。ポチ袋はお正月とお誕生日の時だけ。でも現金をそのまま渡すことはしなくて、そこに曾祖母なりのささやかな気遣いと品を感じて好きだった。



ある時、いつものように遊びに行くと、額縁に入った曾祖母の大きな写真があった。どうやら散髪後に写真館で自分で撮ってもらったらしい。

なんでまた、遺影みたいだね、とその時は祖母や母と笑った。なぜなら曾祖母は超高齢にもかかわらず寝たきりになることもなく、自分の世話は自分でできて、健康状態も良好で、とうぶん死にそうにもなかったからだ。

だから最後に会った日もいつもどおりだった。本当にいつもどおりすぎて記憶がほとんどないくらいいつもどおりだった。

ただいつもは曾祖母の部屋に「かえるねー!またくるねー!」とあいさつしに行ってそれでお別れだったのに、その日はわたしたちが母の運転する車に乗っていざ帰ろうとした時、めずらしく見送りに来たのだ。

シルバーカーの上に腰かけて、こちらを見て笑顔で小さく手を振っている姿。



それが、わたしが最後に見た生前の曾祖母だった。



帰りながら母と「見送りなんてめずらしいね」と話していた数日後、曾祖母が倒れた。

朝から般若心経をとなえ、活動的に過ごし、めずらしい人に会いに行って、めずらしく普段は入らない早い時間にお風呂に入って体を綺麗にして、ちょっと大きな額のお金を懐にしのばせて眠り、その日の夜、倒れた。

自分の面倒は最後まで自分で見るという執念。

これが、スーパーひいばあちゃん。



倒れてからは、早かった。

わたしたちひ孫は入院して以降、曾祖母に会いに行くことを許されなかったので、そこらへんの記憶があやふやだけれど、亡くなったあと母から聞いたのは「最後に会った記憶が管だらけのおばあちゃんじゃなく、おばあちゃんの笑顔であって欲しかった」とのことだった。

「お母さんは何十年分の記憶があるから大丈夫。でもあんたたちはそうじゃないから」と。

時が過ぎた今あらためて考えて、わたしはあの時の母の選択に感謝している。

子供の時に管だらけの曾祖母を見ていたらインパクトが強すぎて、書きたいことがスーパーひいばあちゃんエピソードじゃなくなっていたかもしれないから。

最後に見た曾祖母の姿が笑顔だったから、わたしの中でスーパーひいばあちゃんは笑顔のスーパーひいばあちゃんのまま、存在しつづけている。



お通夜と告別式は、母の実家で営まれた。

箪笥などが奥の廊下に押しやられ、襖も全部はずされ、がらんとした広い空間が出来上がり、曾祖母がいつも眠っていた奥の部屋に、棺桶とたくさんのお花があり、真ん中あたりに、額縁に入った曾祖母の大きな写真があった。

あ。あの写真だ。

「遺影みたい」ではなく、正真正銘、遺影のために自分で写真館へ行ったのだと、この時にはっきり分かった。

こわすぎるだろ、スーパーひいばあちゃん。

初めて亡くなった人を見た時は正直、えも言われぬ恐怖を感じた。棺桶の中に横たわっていたのは曾祖母であって、曾祖母ではなかったけれど、曾祖母だった。

あの瞬間、わたしの死生観の根底が出来上がったように思う。

次に感じたのは、人の死後そこにあるのはその人が大切にしつづけた肉体とその歴史で、意思をなくしてなお変化をし続けるその肉体は尊く、恐怖する必要はないということだった。



告別式には今まで会ったことのない親戚はもちろん、知らない町の人もたくさん来ていて、曾祖母の顔の広さに驚いた。

中でも驚いたのが、「亡くなる日の夜、コンコン、と窓を叩く音がした」と言う人がいたことだった。いや、だからこわいって(笑)。

滞りなく、と言えないまでもお通夜も告別式も火葬も終わり、身内だけで納骨式も済ませ、お寺の前で15人くらいで軽く立ち話をしていると、その輪の真ん中に曾祖母にとてもよく似た、シルバーカーを押して立っているおばあさんがいた。

はじめは曾祖母の姉妹かと思ったけれど、曾祖母は一人っ子だったことを思い出し、遠い親戚の人か、町の人だと思った。その人は一言も発さず、ただ笑顔でそこにいる人たちのことを見ていた。

そして、そこにいた全員で母の実家へ帰って気づいた。



さっきのおばあさんが、いない。



そういえば、みんなあのおばあさんを無視するみたいに、誰もあのおばあさんを気にかけたりする様子がなかった。あんな超高齢のおばあさん、いたら普通の人なら気遣うだろうに、本当に、誰も、まるで、見えていないかのように。

見えていないかのように。

見えて、いない?

ああそうか。



あれは、曾祖母だったのだ。



わたしは霊感があるつもりはなかったし、死後の世界は信じていないし、基本的には科学的根拠があるものを信じているし、スピリチュアルな話には懐疑的だし、無宗教だけれど、あれが曾祖母だと受け入れるのにふしぎと時間はかからなかった。

たまたまなんらかの波長があったのか、たまたまわたしだけ見えてしまったようだ。

幽霊ってこう、なんかもっと怖いイメージだったけれど、はっきりと見えすぎて、幽霊を見慣れていないわたしには生きている人との区別がつかないくらい、とても自然にそこに存在して、優しい笑顔で、わたしたちを見守っていた。

でも、どうして見えたのがわたしだったのか、いまだに謎である。

幻覚を見そうなくらい精神的にやられていたのは誰の目に見ても叔父だったし、曾祖母の血を濃く受け継いでいて生まれた時から一緒に暮らしてとてもかわいがられていたのは母だったのに、それなのに、どうして自分なのだろう。

母に「わたしもおばあちゃんに会いたかった」と言われた時、わたしじゃなくてお母さんが見えればよかったのに、と思った。



しかし、成人して以降、祖父母によく「曾祖母があんたに出ている」と言われるようになった。

何度も言うようにスピリチュアルな話に懐疑的なわたしは聞き流してしまったれど、たしかに根底にある持て余しがちな執念深さは、誰ゆずりでもなく曾祖母ゆずりのようにも思う。

そしてこれは作詞をしたり歌を歌って音楽に携わるようになってから祖父母に聞いたのだけれど、どうやら曾祖母はずっと歌を作ったり、お歌の先生をしたりしていたらしい。

わたしの家系には音楽やクリエイティブを生業としている人がいなく、完全にわたしが異質なのだと思っていたら、曾祖母がそういうタイプの女だった。

まったく、これだからスーパーひいばあちゃんは。

そんな曾祖母が「出ている」と言われるこっちの身にもなって欲しい。



わたしは超高齢になっても自分で自分のことをやって、死期を感じて散髪に行って、自分で遺影を用意して、普段会わないようなたくさんの人に会いに行って、笑顔で孫とひ孫を見送って、倒れる前にお風呂に入って、自分が倒れた後かかるであろうお金を気にして懐に少し大きな額のお金をしのばせて死んでゆくなんて、きっと、できない。

最高にかっこいい、わたしのスーパーひいばあちゃん。

きっとできないけれど、昨日よりつづいていた吐き気を伴う頭痛がすこし落ち着き、いつもの偏頭痛程度の頭痛になったのでシャワーを浴びた。

曾祖母に倣い、いつ、なにがあってもいいように。







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