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【番外編】塩イカと黒曜石、そして蕎麦

 「しなの7号」に乗って松本へ向かった。気の合う友人二人と松本で落ち合うことになっていた。「shiNANONANAgou」舌を噛みそうな電車だが、山あいを縫う木曽川沿いの風景は十分に目を楽しませてくれた。木曽川は長さ229km。日本で七番目の長さを誇る。5月の終わりのある晴れた日、6時に起きて新大阪から名古屋へ、名古屋から乗ったしなの7号は長い木曽川を遡るように進んでいった。

 「昔は、他の地方でも塩イカを食べるものだと思ってました。こちらのスーパーでは普通に売ってます。イカのハラワタをとって、中に塩を入れた保存食ですね。」松本で泊まったホテルのフロント係が答えてくれた。昨日の夜、居酒屋で食べた塩イカと胡瓜の和え物はえらく塩辛かったのだが、ホテルの朝食に並んだ塩イカとセロリの和え物はちょうど良い塩加減だった。朝晩続けてこれまで食べたことのない「塩イカ」を口にしたので、気になって聞いてみたのである。ホテルのフロント係は、同意を求めるような目で若い女性フロント係の顔を優しく見たあと、 
   「海のない松本の海産物なんです。中の塩はとるんですが、イカには塩が十分染み込んでいるので、この塩の抜き加減が各家の好みで様々になるんです。」
   と、私に向かって話しを続けた。黒光りする民藝家具が置かれた「松本ホテル花月」のロビーに清々しい朝の空気が流れていた。

 海のない地域にとって、塩の確保は重要だ。信州にも日本海や太平洋から塩が運ばれていた「塩の道」がある。松本、塩といえば「敵に塩を送る」が頭に浮かぶ。武田信玄が信州を治めていた時代、敵対する今川氏真と北条氏康に太平洋からの塩を止められ、信玄は苦境に陥った。それを知った上杉謙信は今川・北条に同調せず、日本海から塩を運び塩止めをしなかった。謙信の義の精神を示す有名なエピソードであるが、古文書には明確な記録は残っていないらしい。しかし、今川・北条の塩止めのあと、謙信から塩が到着した1月11日にちなんで始まったと言われている塩市は、今ではあめ(飴)市と名を変えて松本の年明けの一大イベントになっているそうだ。1月11日は塩の日とまで定められている。塩の道は古くから日本各地にあるが、松本と日本海を結ぶのは、糸魚川から千国街道を通って塩尻に至る道である。塩の道の終点の街が塩尻なのだろうか。こういう地名の付け方は涙が出るほど嬉しい。塩を詰められたイカも、その昔この道を通って糸魚川から松本に運ばれたのだろう。イカを運ぶというよりも中に詰められた塩を運ぶのが主目的だったのかもしれないが、今ではイカが立派な主役である。松本だけでなく信州の名物になって土産物店にも並んでいる。

 この塩の道、さらにはるか昔の縄文時代に思いを馳せれば信州から日本海へ黒曜石が運ばれた「黒曜石の道」にもつながっていく。縄文時代中期、紀元前5000年前ごろの遺跡が信州では多く見つかり、近くには鏃(やじり)やナイフの役割をする黒曜石の原産地もあった。信州産黒曜石は、遠く離れた青森の三内丸山遺跡でも発見されたというから驚きである。諏訪湖の北東あたりで取れた黒曜石は、姫川に沿って糸魚川あたりまで陸路で北上し、そこから三内丸山へは潮流を利用して海路で運ばれていたのだろう。三内丸山では、運ばれた原石を加工して、さらに青森の各地に運んだというようなことも行なっていたというから、輸送や加工に携わる人々がいた、つまり分業が行われていたのではないかとも言われている。信州の縄文遺跡では、糸魚川の翡翠も見つかっているので、翡翠はこの道を南下していったのである。ちなみに糸魚川の翡翠は、出雲でも見つかっているというから、出雲と越の国も繋がっていた。縄文時代の情報伝達や移動・輸送の実態は私の想像をはるかに超えている。小山修三と岡田康博の『縄文時代の商人たち 日本列島と北東アジアを交易した人びと』などを見ると、商人ともいうべき人たちがいたと考える専門家もいることがわかる。食料にしても狩猟が中心とはいえ、自分たちの食事に役立つクリやクルミ、トチ、ゼンマイ、ワラビ、マメなどは、自然に任せるのではなく太陽光が満遍なく当たるように不要な木を伐採して生育環境を管理していたということもわかってきているらしく、農耕に近いことも行われていた可能性が高いという。国宝となっている「縄文のヴィーナス」や「仮面の女神」といった土着的であるが洗練さもかねそなえた土偶も、縄文の美的あるいは文化的側面の深淵さを感じさせる。私が中学生の頃に習った縄文=原始というイメージは完全に払拭されてしまった。
 

諏訪湖周辺は縄文銀座(赤いマーク)


信州産黒曜石はブランド品


高さ27cmの国宝 縄文のヴィーナス

青森の縄文遺跡だけでなく、関西の縄文遺跡からも信州産黒曜石が出てくるらしい。狩猟や調理をするのに役立つ優れた道具だったので、信州産黒曜石はブランド化していたとも言われている。他の地域の縄文人が来たのか、あるいは信州の縄文人が行ったのか、はたまた色々な中継場所を経て黒曜石が運ばれたのかは定かではないが、少なくとも黒曜石という名産品によって人が動き、コミュニケーションが図られ交易がなされたのである。交易というと何らかの共通価値あるものを媒体とした貨幣経済のような仕組みを思い浮かべるが、当然このころ貨幣は存在しない。笛木あみは『縄文人がなかなか稲作を始めない件 縄文人の世界観入門』のなかで、
 「縄文人の採っていたと考えられるシステムは、『贈与経済』といいます。これは、世界のさまざまな民族に最近まで見られたシステムで、モノが人から人への『贈り物』や『お土産』によって流通するのです。贈与経済において、『商品』の対価として支払われるものは、強いて言えば『負い目』です。」
 例えば、ご近所の人から「山梨の実家から桃が届いたので、少ないけれどお裾分け。」と言って桃をもらえば、「この前、福岡に行ったら老舗の明太子を見つけたので。」と、お返しに明太子をご近所の人に手渡す、といったことが身近にある贈与経済といったところだろうか。贈与経済は、現代経済学ではまだ傍流にとどまっているようだが、環境問題、南北問題や通貨危機を解決するのは市場経済だけではなく、贈与経済の考え方が必要ではないかとも言われ出してきている。縄文の社会生活は、現代の世界的課題解決にも期待されているのである。
 藤森英二の『信州の縄文時代が実はすごかったという本』の帯にあるように「縄文時代中期・八ヶ岳 そこはニッポンの銀座だった。」というくらい、八ヶ岳の南や西には縄文の遺跡が数多くあるので、近隣の縄文人たち同士には何らかのコミュニケーションツールがあったと思うのだが、具体的に共通の意味をどのように認識し合っていたのかよくわからないという。それでも「贈与経済」を当てはめれば、あの集落の人から貰った石は綺麗だし役に立ったとか、あの集落の人が持ってきたマメを煮たら美味しかったとか、猪をたくさん捕まえたからお礼に猪の肉だけでなく上手い捕まえ方を教えてあげようなどという縄文人の優しい気持ちを想像するのは容易い。縄文人は平和的で友好的な生活を送っていたに違いない。笛木あみは前述の本で、
 「カミから人間へと『贈与』された自然の恵みは、誰か特定の人間が独占するのではなく、みんなで平等に分けなければいけない−縄文時代の贈与経済には、そんな神話的倫理観が働いていたのかもしれません。」
 とも書いている。日本の歴史で一番長く続いたこの時代には、おそらく争いは少なかったのだろう。

 大阪に帰る日の昼、松本駅の近くの蕎麦屋で塩イカと胡瓜の和え物をつまみながら一杯飲んで縄文の話などに興じていたら、制服姿の中学生男女6人が店に入ってきた。流石に松本のような蕎麦の名産地になると、学校帰りの中学生は蕎麦屋へ寄って友達やクラブ活動の話をするのかと思ったら、そうではなかった。彼らは修学旅行で信州に来ている千葉の中学生だった。自由行動の時間を使って、信州蕎麦の有名店で蕎麦を食べようとしたというのである。店の女性に聞くと、
 「最近、修学旅行生が店に来ることが多いんです。先生の指導を受けてネットで調べ、蕎麦屋を選んできてるようです。生徒たちから直接予約電話がかかってきます。」
 と、教えてくれた。我々三人は関西と広島から蕎麦を食べに来て、千葉からは蕎麦を求めて中学生がくる。そして有名蕎麦店で巡りあって言葉を交わしたのである。縄文時代中期と同じことが、現代にも起きている。黒曜石が蕎麦に変わっただけである。我々も中学生も情報の道を辿って、松本で巡り合った。現代の情報の道は、陸路でも海路でもなく目に見えない網路(あみのみち)であるが、実際に中学生と巡り合って話したことと、塩イカや蕎麦を口にしたことは、私の海馬から大脳皮質にはっきりと刻まれているのである。

野菜と鴨肉の入った信州蕎麦&蕎麦焼酎 野菜のシャキシャキと鴨の歯応えが蕎麦に合う(Good!!)


 千葉の中学生たちが、蕎麦を食べて店を出ていった後、ふと今の中学生たちは縄文時代をどんなふうに教えてもらっているのだろうかと気になった。ギリギリまで蕎麦屋で時を過ごし、松本駅で名古屋行きの特急に飛び乗った。「しなの16号」だった。少し酔ってはいたが、みどりの窓口で「しなの16号」と舌を噛まずに切符を買うことができた。

●松本ホテル花月・・・創業明治20年、松本民芸家具が随所に配置された落ち着いたホテルである。気持ちの良い食堂があって、朝食には地元の食材がふんだんに使われる。生卵の殻が硬くて、なかなか割れないので理由を聞くと、ゆったりと育てることで有名な養鶏場で作られていると話してくれた。こだわりの卵でしっかりした味だった。ホテルは上土(あげつち)町という場所にあるが、古い地図には揚土という名前が記載されている。松本城の総堀を掘った時の土を揚げた場所というのが、町名の由来だそうである。歴史が刻まれた地名である。
●小山修三 岡田康博『縄文時代の商人たち−日本列島と北東アジアを交易した人びと』洋泉社  2000年
●笛木あみ『縄文人がなかなか稲作を始めない件 縄文人の世界観入門』かもがわ出版 2022年
●藤森英二『信州の縄文時代が実はすごかったという本』信濃毎日新聞社 2023年

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