見出し画像

19. 冬港ブルースの如く鴎泣き

 神戸のような大きな港町があれば、身を寄せ合うように家が並ぶ小さな港町もある。そんな小さな町にもドラマが生まれ、歌が生まれる。鴎の鳴き声にさえ、切なさを感じる。

19.冬港ブルースの如く鴎泣き

 津々浦々という言葉がある。津は港、浦は海岸のことを表している。津々浦々に広まると言うように使われるが、物事が日本中に伝わることを意味している。昔は、陸路で人や物・情報が伝わるのでなく海路で港町に伝わり、そこから内陸へ伝わっていったのだろう。港町は人や物・情報が集約され、そして分散する場所だった。大きな港町は物流を中心に大きく賑わったが、自然の地形を利用した風街の港として機能した小さな港町もある。そんな街の一つが能登半島の福浦(ふくら)である。森崎和江の「風待港 外浦・富来町福浦」には、

 「・・・数百石の帆船が岩に取り囲まれた港に入って、日和り待ちをしたのである。船が入ってくる春先から秋の初めまで、人々が集まり港は賑わった。・・・この青い入江に帆を休める船は磯まわりをする小舟ではない。日本海の沖乗りをする江戸から明治にかけての北前船だった。福浦近郊の産物を買い付けに寄るものでもない、船に水や食糧を補給し、そしてひたすら帆船に都合のいい風を待つ港だった。」

 とある。船が港に立ち寄って風を待つ間、船に乗ってきた多くの男たちが町に逗留した。産物の商いはないにしても生活用品の調達などもあり、小さな町にとっては船の出入りは日常とは違う賑わいにつながった。やはり「栄えた」といっていいだろう。佐渡の小木、能登の福浦、但馬の柴山、石見の温泉津(ゆのつ)、長門の下関の五カ所が、河村瑞軒の開拓した西回り航路の中で、幕府が定めた日本海側の風待ち港だった。公に認められた港として格が高かったのである。中でも能登の福浦は良港で、地図を見ても大潤(おおうるま)と水潤(みずうるま)という二つの入江が外海から船を守ることが見て取れる。北陸には北前船の船主も多かった。大畑喜代志の『〜渤海国使も足跡を残した〜 福浦港の「みなと文化」』には、

 「能登の北前船の歴史は、大阪に拠点を持つ近江商人の『雇われ船頭』として輸送を委託されたことに始まり、能登半島の船頭たちは、その地形を利用した航海技術、漁業での交易手段に長けていたためであろう。その後、蝦夷地まで延びた航路は豊富な海産物をその販売品として増加させ、自前船を持つ船頭へと変遷を遂げ、北前船の繁栄につながる。」

 と書いている。雇われ船頭から自前の船を持つ船頭になることで、今風に言えばリスクは大きくなるが儲かる可能性も大きくなる。多くの船頭は自前船に挑んだのだ。少ない平地に住戸がへばりつくように連なっている福浦の街並みの中には、男達だけでなく女達も暮らしていた。海へ出ていく男達と港で待っている女達の間には多くのドラマが生まれた。海難に合う男もいただろう、明日には港を去っていく男もいただろう。悲しい別れに因んだエピソードがあった違いない。港町には、活気とともに悲哀と寂寞も渦巻いていたのである。だから日本の港町には演歌が生まれる。悲哀と寂寞に伴う感情を、アメリカではBlueというが、その気持ちを歌うのがブルース(正確にはブルーズというらしい)だ。奴隷として連れてこられた黒人とその子孫たちの苦しみから生まれた音楽で、ジャズやロックもブルースから生まれたと言われている。B.B.キング「Thrill Is Gone」、エリック・クランプトン「Hey Hey」、マディ・ウォーターズ「Rolling Stone」などとキリがない。日本の演歌にも、ブルースがタイトルについている曲が多い。「別れのブルース」「伊勢佐木町ブルース」「柳ヶ瀬ブルース」「恍惚のブルース」そして「港町ブルース」と、こちらはもっとキリがない。専門家から見ると音楽理論的にブルースと演歌は違うらしいが、文化論的には似ている。五木寛之は「艶歌」で、登場人物に

 「(艶歌は)言うなれば日本人のブルースと言えるかもしれん。音楽的には貧しいが、否定するのは間違いだぜ。」

 と言わせている。森進一の「港町ブルース」も、文化論的には切ない哀しさを歌うブルースで、やはり歌詞はなかなか奮っている。

「背伸びしてみる海峡に 今日も汽笛が遠ざかる あなたにあげた夜をかえして 港、港 函館 通り雨」

「流す涙で割る酒は だました男の味がする あなたの影を 引きずりながら 港、宮古 釜石 気仙沼」

 と、哀切感に満ちている。さらに4コーラス続く。6コーラスの歌詞の中から主な名詞を拾うと、海峡、汽笛、通り雨、涙、酒、影、別れ船、女心、愚痴、残り火。動詞を拾うと、遠ざかる、かえす、だます、引きずる、待ちわびる、こぼれる、身を焼く。まさにブルースの世界である。先にあげたアメリカのブルース歌手マディ・ウォーターズは、日本語では「泥水」という名前なのだから、ステージネームまでもがブルースである。

 2011年3月11日の東北大震災で宮古、釜石、気仙沼を含む三陸沿岸は地震と津波の大きな被害を受けた。小学校から中学校にかけて仙台に住んでいたので、宮古、釜石、気仙沼は、遥か遠くの場所ではない。ましてや私も阪神淡路大震災を経験した身でもある。気仙沼にある「港町ブルース」の歌碑も被害にあったそうだ。それでも、海の人は海と共に生きていく。哀しみを歌うブルースがジャズやロックという新しい音楽を生み出したのだが、それは悲嘆から主張へと進化していくプロセスでもあった。チルチルとミチルは旅をして幸せが自分たちの身近にあることに気づいたが、被災地の人達は目の前にある青い海に青い鳥がいることを昔から知っている。
                                     
●森崎和江「風待港 外浦・富来町福浦」作品社 1989年・・・『日本名随筆79 港』に掲載
●大畑喜代志『〜渤海国使も足跡を残した〜 福浦港の「みなと文化」』一般社団法人みなと総合研究財団 2009年
●五木寛之「艶歌」講談社 1987年・・・『艶歌・海峡物語』 に掲載
●森進一「港町ブルース」1969年 作詞:深津武志 作曲:猪俣公章 編曲:森岡賢一郎

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?