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29. 夕焼けにチヨコレイトの声溶けて

 山高帽子で、もう一人忘れてならないのはエルキュール・ポアロである。アガサ・クリスティーの小説の主人公である。NHKで放送された『名探偵ポアロ』でデビッド・スーシエ演じるエルキュール・ポアロは、整えられた口髭、プレスの効いたズボンに磨き上がられた革靴を履いて、常に服装には気を使っていた。そして、外出には洒落た山高帽子をかぶっていた。

29.夕焼けにチヨコレイトの声溶けて

 エルキュール・ポアロはイギリスで探偵の仕事をしているベルギー人であり、ベルギー人であることだけでなくイギリス人でないことを誇りにしている。料理や生活スタイルにもこだわりが強く、飲み物では紅茶ではなくチョコレートが好きである。確かに寒い時のホットチョコレートは、なんとも言えず美味しい。クリスティー晩年の作品『第三の女』はポアロが朝食を食べる場面から始まる。

 「エルキュール・ポアロは朝食の座についていた。湯気をたてているチョコレートのカップを右手に持っている。彼は生来甘党である。チョコレートに添えられているのはブリオッシュだ。チョコレートによく合う。彼は満足そうにうなずいた。」

 このあと不愉快な来客が帰り、女性探偵小説作家に午後のお茶に誘われるが紅茶もカフェインレスコーヒーも断り、「よろこんで、ひるからチョコレートをいただきにうかがいましょう。」と、チョコレートを飲む約束をする。そして、

 「その日の午後四時十五分、ポアロはオリヴァ夫人の家の客間で、たったいま女主人がかたわらの小卓に運んできてくれた、ぶつぶつと泡立つ生クリームを浮かべたチョコレートを、大きなカップから旨そうにちびちびと飲んでいた。」

 となる。またクリスティーの短編小説「チョコレートの箱」では、

 「わたしのそばには、慎重に調合したトディ酒。ポアロのほうには、わたしなら百ポンドもらってもごめん被りたい、濃いどろどろのチョコレートがのっている!ポアロはピンク色の陶器のカップから、こってりした褐色の液体をすすって、満足そうにため息をついた。」

 とヘイスティングズに語らせる。

 ポアロが飲んでいたのはカカオバターの入ったホットチョコレートだと思うのだが、私が子供の頃飲んでいたのはカカオからカカオバターを除いたココアパウダーを使ったココアだった。製造工程で砂糖や乳製品も入っているが、カカオバターという油脂が入っていないのでパウダーそのものはサラッとした感じだった。それでもお湯を加えて口にすると、子供心にはトロッとしていて、これほど甘くて美味しい飲み物はないと思った。しかもココアパウダーの入った丸い筒状の缶の表にはヴァン・ホーテンというカタカナや、何やらアルファベットが並んでいたのだった。どうやら外国のものだということはわかった。ココアは、カカオからできた高級な飲み物だった。ヴァン・ホーテンはオランダの食品会社で、1828年に世界で初めてカカオ豆からカカオバターを分離してココアパウダーを作り、ココアを格段に飲みやすくしてくれた、私にとっては思い出深い企業なのである。

 チョコレートといえば、グリコ遊びを思い出す。グリコじゃんけんとも言った。グリコ遊びでは、チョコレートではなくチヨコレイトであった。じゃんけんをして、グーで勝ったら「グリコ」と言いながら3段階段を上がる。チョキで勝ったら「チヨコレイト」と言いながら6段上がる。パーで勝ったら「パイナツプル」と言いながら6段上がる。一番早く上まで行った人が勝ちである。地方によっては違う言葉もあるらしいが、当時私が住んでいたところではこの3つだった。なぜ、この食べ物が選ばれたのかはよくわからないが、いずれも子供にとっては口にしたい食べ物だったのだろう。小学生の頃には、グリコ遊びは言うまでもなく道具のいらない、つまりお金のかからない遊びが多かった。缶蹴り、かくれんぼ、ゴロベース、だるまさんがころんだ、けんぱ、縄跳び、めんこ。今の子供達から見ればなんと貧乏くさい遊びとなるかもしれない。学校の帰り道、電信柱から電信柱まで誰がランドセルを持つか、ジャンケンで決めるという遊びもあった。重い、重いと言いながら一人で3つも4つもランドセルを持って、次の電信柱まで歩いたのである。今なら親から文句が出るだろう。高度成長期を迎える前の子供たちはそれでも元気に遊んでいた。テレビも各家庭にはなかった時代である。素朴な遊びを考えるしかなかったのである。

 今では、ショコラティエというような職業もあり、高級品が溢れかえっているチョコレートであるが、私がグリコで遊んでいた時代は、森永ミルクチョコレートはすでにあったものの、明治のマーブルチョコレートや不二家のLOOKがようやく世に出始めた頃である。マーブルチョコレートはチョコレートの小さな粒にカラフルな糖衣がついていて可愛らしかった。LOOKはチョコレートの中にバナナやイチゴのクリームが入っていて、これも楽しみだった。当時は、甘い子供向けのお菓子で、カカオの含有量など気にも留めなかったが、昨今はポリフェノールが体に良いということでカカオの含有量の高いものも出回っている。バレンタインなどというイベントもあって、2月になると高級なチョコレートを求めて女性がチョコレートショップに並ぶ。それでも、根強く残っているミルクチョコやマーブルチョコ、LOOKの素朴なパッケージを店頭で見かけると、チヨコレイトの時代を懐かしく思い出すのである。

●アガサ・クリスティー『第三の女』  訳:小尾芙佐 早川書房 2021年(初版は2004年)
●アガサ・クリスティー「チョコレートの箱」 クリスティー短編全集⑦『ポアロの事件簿2』 訳:厚木淳 東京創元社 2020年(初版は1980年)に掲載


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