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読書ノート「編み出し、織り成す生の美」

この物語を読むことは著者と一緒に著者自身に刺さっている棘や負った傷をなぞるということだった。一本の棘、ひとつの傷を細部までなぞる。
読むこちら側が目を背けたくなるほどの棘や傷を抱え、背負っている著者が誰よりもなぞり、見つめている。
「もう、それぐらいにしたら?」と声をかけたくなるほどに丹念に、丁寧にじっくりと掘り下げている。その余波が強く迫ってくる感覚を幾度となく覚えた。読み手でさえ、そうなのだ。著者自身はどれほどの波うち、揺れを体感しているのだろうか。はかりしれない。
ただ、
棘や傷を一緒に追う過程において著者はどこか面白がっているように思える。随所にユーモアがみてとれるのだ。
辛くて、苦しくて、痛くて、でも笑えてしまう。そんなくだりがいくつもある。
本当に辛くて、苦しいと知っているのに笑えてしまう。何度も声にだして、笑ってしまうのだ。
辛いことや苦しいことはそれだけ面で終わるのではなく、別の面には「笑い」という面が見え隠れしているのかもしれない。
書かれる文脈にはそぐわないような確信犯的な文章の書き方が多くなされているのだ。ずるいと思った。意に反して、笑うしかなくなってしまうのだ。そんな書き方されたら、笑うしかないじゃんという文がいくつもある。
この本にはユーモアがある。
著者自身は何より、人生を面白がっているように思えた。

渦中の自分からしたら、そんな訳はないのに、辛いことや苦しいことは笑いに転化しうる余地があるように思える。
負った傷や刺さった棘について本気で感情を載せてしゃべると、大概はウケる。確信犯的にしゃっべているところは大いにある。
ウケるということは、受けいれられるということでもある。
跳ね返りが「笑い」として提出され、話は昇華される。
笑いには、昇華作用がある。
たとえつらいことであっても、苦しいことであっても、「ウケる」と、笑いが跳ね返りとして、相手が「受けてくれた」ということも分かる。

ただ、そういった話は辛いことや苦しいことを辿った結果に訪れるものであって、渦中の自分にそんな余裕は感じられない。当然昇華できない辛さや苦しみも存在する。
またそこには、笑いとは別の転化が存在する。
現在進行形で辛くて、苦しさに覆われ、思い悩むという過程を辿っていることは生への想いや熱に転化するのだ。
本書で言うなれば、こだまさんは夫のちんぽだけが入らない。それは、過去として流されるような問題ではない。夫婦として、二人で歩んでいくとするならば、一生ついて回る事実だ。その事実に歩み寄り、悩み、もがき、折り合いを試みようとする営為は、こだまさんなりの性の形を授け、形成させた。生きるという意味を与えたのだ。
それが、

私たちは不運だったかもしれないけど、決して不幸ではない。

こだま『夫のちんぽが入らない』、講談社文庫、232頁。

この一文に現れているように思える。
この一文は、ちんぽが入らないという事実と徹底的に向き合ったからこそ、こぼれる一文ではないだろうか。
辛く、苦しく思うこと、そして悩むということは生に対して全身全霊、本気で向き合っているということだ。
そうした過程でちょっとずつ、ちょっとずつ磨かれていき、自分なりの生という結晶が表出し、自信という陽の下に照らされ、輝きだすのだろう。
この一文からは、こだまさんの光輝く結晶が垣間見れる。

考え、悩みぬいた末に表出する生が纏っているオーラ。
こだまさん、ひいてはこだまさん夫婦を覆うオーラ。
ちんぽが入らないということに本気で向き合った故の、それなのだ。
それは、こだまさん自身が編み出し、織り成した生だ。
美しいと思った。信じたいと思った。
辛くて、苦しいことの末には光り輝く結晶が編み出し、織り成されたのだ。

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