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バックヤードの認識論—『私の百合はお仕事です!』論(試し読み)

2023年11月11日(土)に開催される文フリ東京に、不毛連盟(ブース:そー38)という団体で参加します。新刊『ボクラ・ネクラ 第六集』を発売します。

先日特別企画「令和ミステリ批評を位置づける――『現代ミステリとは何か』編」の試し読みを公開しましたが今日は個人論稿「バックヤードの認識論—『私の百合はお仕事です!』論」の試し読みを公開します。

目次は以下の通りです。


バックヤードの認識論—『私の百合はお仕事です!』論  目次

一 スパイ・嘘・二項対立
二 カフェでの本音、攪乱される境界
三 百合を見つめる視線をめぐって
四 バックヤードの姉妹たち
五 欲望と向き合うこと、新しい関係を言祝ぐこと


タイトルはセジウィックの古典、『クローゼットの認識論』のオマージュです。

あと嬉しかったのは、阿津川辰海先生が宣伝に反応してくださったこと。阿津川先生、『わたゆり』好きなんだ。

ちょっとだけまじめな話。自分の主戦場はミステリ批評・評論だと思っているけど、ジャンル外の作品を批評もできるようにはなりたくて、かといって他の人と同じような手つき(普通に批評理論を駆使した読解)だと、それは専門的な訓練した人たちに到底太刀打ちできるわけないので、そこにオリジナリティとしてミステリ批評で培った知見を活かせないかな、と考えていました。本稿はそうした試行錯誤の一環です。ご笑覧いただければ幸いです。


バックヤードの認識論—『私の百合はお仕事です!』論


※本稿では未幡『私の百合はお仕事です!』十二巻までの内容をもとに書かれている。論旨について、今後の展開如何によっては修正を迫られるものもあると思われるが、二〇二三年七月現在刊行されている最新刊時点での物語についての評価であることをご承知おき願いたい。また本稿は『私の百合はお仕事です!』十二巻までのネタバレを含んでいる。

一 スパイ・嘘・二項対立

未幡『私の百合はお仕事です!』(以下、『わたゆり』)には、不思議なことにどこかスパイミステリを彷彿させるものがある。

『わたゆり』は、玉の輿で億万長者を目指し、誰からも愛される「演技(ソトヅラ)」が上手な主人公、白木陽芽が、ある出来事からミッションスクールを模したコンセプトカフェ「リーベ女学園」で働くこととなり、そこの従業員である矢野美月や間宮果乃子、知花純加らと繰り広げる仕事や人間関係のトラブル、そして恋愛模様を描いた、いわゆる百合マンガである(連載媒体は『コミック百合姫』)。当然、スパイは登場してこないし、そもそもジャンルとしてミステリに括られるようなマンガでもない。
 
その一方で、『わたゆり』がミステリ・サスペンス的な作劇を志向していることは、あらすじからは想像しにくいかもしれないが、作品を一読すれば頷かざるをえないだろう。例えば第一巻がある人物の正体が明かされたところで終わったり、第一〇巻ではあるカップル成立の裏に「黒幕」がいることを明かして終了するなど、クリフハンガーを効果的に用いながら物語は意外な展開を突き進む。また、物語の主眼となる恋愛を含む人間関係についても、単純な「思い思われ」といったようなものではなく、個々人の思惑が複雑に絡み合うように描かれている。さらにコンカフェでのそれぞれが演じる「キャラクター」も人間関係に大きく影響を及ぼしており、登場人物の少なさ(サブキャラクターも含めてネームドキャラは八人しかいない)に比して、人間模様は非常に混沌としており、複雑なパズルのような状況となっている。このようなミステリ・サスペンス的要素だけでも、「スパイミステリ」らしさが伝わるとよいのだが、もう少し詳しく検討してみよう。

ここで『わたゆり』とスパイもののアニメ『プリンセス・プリンシパル』(二〇一七年)を比較してみたい。『プリンセス・プリンシパル』は少女五人組のスパイチームの活躍を描いたアニメである。王道のスパイ小説ではないものと比較するのは恣意的な作品選択と思われるかもしれないが、『プリンセス・プリンシパル』がスパイミステリの金字塔であるジョン・ル・カレの作品群に影響を受けていることは自明だろうし(主人公のフルネームは「アンジェ・ル・カレ」だ)、『わたゆり』と同じく少女同士の関係性、いわゆる「百合要素」があるスパイものと比較した方が見えてくるものもあるだろう。

『わたゆり』と『プリンセス・プリンシパル』には「嘘」という共通のモチーフがある。『プリンセス・プリンシパル』では「スパイは嘘をつく」というテーゼが何度もリフレインされる。嘘にまみれた世界の中で、スパイの少女たちはどのような関係を結び、どのように世界と対峙していくか、というのが本作の主題と言っていいだろう。

『プリンセス・プリンシパル』では誇張気味に示されているが、「嘘」というモチーフは、その濃淡こそあれスパイものにおいて共通したものである。敵国を騙すためには、自らを装い、嘘をつくことが不可欠だからである。
そして『わたゆり』においても「嘘」は「演技」とともに重要なモチーフとなっている。主人公の白木陽芽は自身が誰からも愛されるために、本性を隠して「ソトヅラ」をよく見せようと「演技」するキャラクターである(この「演技」にはルビで「ソトヅラ」と振られることがたびたびある)。そのため、周りに調和し自身の本性を隠すためには嘘をつくこともいとわない。「演技(ソトヅラ)」という「嘘」こそ、彼女の武器なのである。

そして彼女が働くリーベ女学園も「嘘」と「演技」が重要になってくる場だ。リーベ女学園は作中の小説『乙女の心臓』(設定などからして『マリア様がみてる』のことだと推察できる)をモチーフにしたコンカフェであり、従業員は女学校にあるサロンの給仕係として「演技」しながら接客をするのである。また、カフェの客は従業員同士によるやりとりに女学校での少女同士の親密な関係、いわゆる「エス」的な関係性を見出し、それを楽しんでいる。タイトルの通り、従業員にとって「百合」を演じることが仕事になるのが、このカフェなのである。

しかし、こうしたカフェでの微笑ましい人間関係はあくまで「嘘/演技」であり、バックヤードでの「本当」の人間関係はとても緊張感に満ちたものになっている。『わたゆり』はそのギャップが大きなポイントになっている。例えば初登場時にギャル的な恰好をしていた知花純加は、カフェ内では知的な装いをまとう「橘純加」を演じたり、物語初期においてはある理由から険悪な関係であった白木陽芽と矢野美月が、カフェ内では「姉妹」として仲睦まじくふるまっていたりと、そのギャップはユーモラスに描かれつつも、物語が進むにつれて重要な意味を持ち始めるものもある。

作者の未幡自身が第一巻のあとがきで『わたゆり』を「裏表の話」と言っているように、またアニメ版のキャッチコピーが「嘘の世界の、ホントの気持ち」だったことからも分かる通り、『わたゆり』は「嘘/ホント」という二項対立的な図式が作中に横溢し、それが作品の核となっているのである。「カフェ/バックヤード」という分け隔たれた空間で、各登場人物は「演技(ソトヅラ)/本音」を使い分け、カフェでのキャラクターと自身を切り替える(主人公であれば「白鷺陽芽/白木陽芽」)。

この二項対立的な図式も、『わたゆり』からスパイミステリ的な興趣を感じさせる理由だろう。味方陣営と敵陣営という二項対立の中で、スパイは本当の正体がばれないように嘘と演技を巧みに使いこなす。そしてこのスパイミステリというジャンルが、東西冷戦という世界規模の(文字通りの意味での)対立のもとで興隆したことは見逃せない。『プリンセス・プリンシパル』も壁で二分された架空のロンドンが舞台とされていたが、そうした背景を意識しての設定であることは言うまでもない。
 

二 カフェでの本音、攪乱される境界

そして、スパイミステリにおける醍醐味が、この二項対立的な図式の攪乱(裏切り、二重スパイといった、いわゆるスパイミステリにおける「どんでん返し」は、この対立図式を崩すことに負っていると言っても過言ではないだろう)であるのと同様に、『わたゆり』においても、物語のターニングポイントでこの図式がずらされることに気づかされる。しかし、先回りして言うと、(例外はあるものの)多くのスパイミステリにおいては、「A/B」という対立において「Aだと思っていたものが実はBだった」というような攪乱が見られるが、その二項対立的な図式を作り出していた「境界(/)」自体は温存されるのに対して、『わたゆり』はその境界を曖昧にするような戦略もとられていることに注目すべきだろう。
 
そうした戦略は陽芽と美月の関係性をめぐる物語序盤の展開(シフト1~10、シフトは話数を表す語)からすでに見られる。リーベのコンセプトをいまいち理解せずに綾小路美月と「姉妹(シュベスター)」となった陽芽は、そのことで美月から厳しく当たられ、最初は苦手意識を覚えるが、徐々に美月のカフェでのやさしさに気づき接近をし始める。しかし、綾小路の正体が、陽芽が小学生の時に特別な友人だったものの、すれ違いと誤解から、陽芽が人前で「嘘」をついていることをクラスメイトにばらした「矢野美月」であることを知り、再び関係は悪化する。そんな中、客たちの間で「綾小路美月は白鷺陽芽にむりやり姉妹をさせている」という悪い噂が流れ始める。
バックヤードでの会話で少しだけ美月と打ち解けあった陽芽は、得意の「演技(ソトヅラ)」で噂を払拭しようと、カフェで美月と仲の良い姉妹を演じようとするが、不器用な美月は(過去と同じように)陽芽の「演技(ソトヅラ)」についていけず(陽芽の本心がどこにあるのかがわからず)、客から関係を心配されて事態は悪化してしまう。

これ以上美月が悪く言われないようにするため、陽芽は最後の手段に出る。陽芽は客たちの前で、自分がやりたくて美月とシュベスターをしていることを告げ、それでも自分がシュベスターを続けるせいで美月が悪者にされるくらいならと、シュベスターの証であるクロイツを美月に返上しようとする。戸惑う美月に陽芽は符牒で告げる。
 

美月「何を…しているの?/そのクロイツは姉妹の大事な証よ…?/それじゃ言ってることとやってることが…違う…じゃない…どうして…どうして…同じことをするの…?」
陽芽「……/好きだから嘘つくんだってこと/今度はわかってください」 覚えててね/私が嘘つくってこと


 
最後の「覚えててね/私が嘘つくってこと」は、小学校時代に陽芽が美月に告げた言葉である。陽芽は小学生のときも「美月とは仲良くない」とクラスメイトの前で「嘘」をつくことで、陽芽と美月の仲を嫉妬するクラスメイトの美月への嫌がらせを止めようとしていた(が、美月には真意が伝わらず、すれ違ってしまっていた)。クロイツを返上しようとする陽芽に、美月は言い返す(カギ括弧なしの言葉は陽芽の心中での台詞である)。
 

美月「違うでしょ!?/だったらなんで辞めるのよ!/なんで私が人にどう思われるかなんかで決めるのよ!/私だって…同じよ…/私とあなたが続けたいと思っているんなら辞める必要なんてないじゃない…/あなたが好きよ/好きだから/ちゃんと妹やりなさい/あなたはあのときも…そんなことを考えてたのね/辛い想いをさせてごめんなさい」 
そうか/そうすればよかったんだ/やりたいほうを選んで良かったんだ/嘘は使わないで良かったんだ 


この姉妹の劇的な仲直りで噂は消滅し、今まで通りの仲の良い姉妹を二人は続けられることとなる。

注目すべきは「好きだから嘘つくんだってこと/今度はわかってください」という陽芽の台詞だ。カフェで「白鷺陽芽」を演じているさなかでの台詞だが、「今度は」という言葉で美月との「白木陽芽」の私的な過去のエピソードを呼び込み、「嘘」であることを隠さなければならないカフェで「嘘をつく」と宣言する。ここにおいて「白鷺陽芽/白木陽芽」の境界は曖昧になる。そしてこのやりとりが、バックヤードではなく、カフェで行われていることにも注目すべきだろう。バックヤードで行われていれば、このやりとりは単なる陽芽と美月の本音の打ち明けあいであったのに対して、「二人の関係にまつわる客の噂」という外的要因を巧みに結びつけて、カフェでこのやりとりが行われたことで「カフェ(公)/バックヤード(私)」「嘘/ホント」「演技/本心」「白鷺陽芽/白木陽芽」「現在/過去」といった境界が一挙に攪乱されるのである。
 

三 百合を見つめる視線をめぐって

このような二項対立を攪乱する手つきにはクィア批評の古典、セジウィックの『クローゼットの認識論』を思い起こさせるものがある。セジウィックは文学作品にみられる異性愛規範を成り立たせる二項対立を打ち崩していくことで、「クローゼット」に押し込められた同性愛的な欲望を明らかにしてきた。

急いで付け加えねばならないのは、クィア批評が行う「二項対立崩し」と『わたゆり』が行っている二項対立の錯乱は似て非なるものであることだ。村山敏勝がクィア批評について「「クィアする」とでもいうべき介入を通じて、見えない欲望を引き出し、新たな解釈を生産する」5とし、「最初からクィアであると疑う余地なく認定されるものは、むしろゲイ的ないしレズビアン的ないしトランスジェンダー的etc... と呼ぶべきではないか」6と述べているように、『わたゆり』が「百合」という同性愛を内包する欲望を抱えたジャンルの作品であっても、そのことはクィア批評を援用できることを意味しないし、物語上で二項対立が崩れていったとしても、読者(批評家)が隠された二項対立を能動的に突き崩して文学作品から隠されたクィア的な欲望を見出すのとは事情がまったく異なる。そもそもセジウィックや村山らが批評した、同性愛的欲望を隠さねばならなかった一九・二〇世紀英米文学と、その時代に比べれば(まだ問題はあちこちに抱えているものの)「百合」として同性愛的な作品が許容される現代日本の作品では位相が異なっていることは明らかだ。

では、同性愛が隠されていないフィクションにはクィア・リーディングが無価値なのかといえば、そうではないだろう。ここで参照したいのが森山至貴「素通りされるクィアネスを再び擁護するために 絲山秋子『エスケイプ/アブセント』をクィアに読む」である。森山は村山のクィア批評を引き受けながら、「クィア・リーディングは、さらにセクシュアル・マイノリティを取り上げるようになるだろうこれからの小説に、同時代的に伴走することが不可能なのではないか」という問いを立てつつ、自らそれを否定するように絲山秋子『エスケイプ/アブセント』の読解を試み、そうした当たり前のクィアネスを「小説の魅力をより明確にしてくれるクィアな要素として「復権」」8させる、クィア批評の新たなステージを示している。

本稿が選択する手法も森山のものと一致する。『わたゆり』の二項対立崩しに、スパイミステリ的な物語としての魅力を感じ取ってきた。そこにどのように「百合」が関わるのか。そうしたクィアネスが二項対立を突き崩すとき、そこにはセジウィックらのクィア・リーディングと同じような批評性が発揮されていると言えるのではないだろうか。

まずはセジウィック的な問題意識と『わたゆり』が重なる部分を探っていこう。『クローゼットの認識論』でセジウィックは、同性愛的な欲望が「クローゼット」の中だけの秘密に押し込められるとき、その開示(カミング・アウト)も含めてクローゼットの外の異性愛規範(を内包する者)という「外部」との関係がクローゼットそのものを規定することを指摘している。訳者あとがきで外岡尚美も指摘するように、視線の非対称性、外部の視線がクローゼットを規定していることは間違いない。そこに当事者性の抑圧を見ることは難しくないだろう。

そうした視線による当事者性の抑圧は、時代や場所・状況が変わり、二一世紀日本の「百合」文化の中にも、形を変えて残ってはいやしないだろうか。近年、「百合」を消費することに対する批判的な検討がなされてきている。例えばレロ/中村香住は「誰が「百合」を書き、読むのか」で、近年の百合ブームについて、「女性同士のいちゃつきを外の安全な位置から眺めて『消費する』異性愛男性」が標準的な読者として想定され、「当事者」が疎外されている百合をめぐる言説状況について批判的に検討している。また江永泉は「百合男子が壊れる 血統・片恋・転生」で物語読者の感想の中にレズビアン嫌悪を見出し、「「百合」カップリングの鼓吹者たちにもまた、それを切実な恋愛というより、囃し立てるような水準で扱う人々が混じっていたのではないか」と「カップリング」にまつわる暴力性を指摘している。

ここで重要になってくるのが、『わたゆり』の上記のエピソードに「客の噂」、つまり客の視線が関わっていることである。客は従業員たちの関係性、いわゆる「百合営業」を楽しみにカフェへ通い詰めている。つまり百合作品を消費する読者と重ね合わせられる存在である。そうした客(読者)がカフェの従業員たちの関係性について、「百合」を見出すこともあれば勝手に不仲を読み取ってしまうこともある。百合的な関係性を消費する際、当事者の本心は隠され、疎外される。クローゼットにしまわれたセクシュアリティのように。

こうした百合にまつわる近年の批判的言説を物語と重ね合わせたとき、『わたゆり』における二項対立を崩す展開に批評的な意味が付与される。「客の噂」の否定は消費者から当事者性を取り戻す行為であり、カフェにバックヤードの関係性を持ち込むことは、客(外部)によって構築された空間を無為化することにつながるからだ。

(試し読みはここまでです。続きは新刊をお買い求めください!)

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