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たとえ季節に置き去りにされても。

最後に文章を書いてから2ヶ月が経った。

この真っ白な投稿画面をみるのもほんとに久しぶりで、初めてnoteを書いた時のような変な緊張感に駆られた。

あれ、どうやって書いてたんだっけって思ってみたり。

まだ4行しか書いてないのに、下書きに放り込んでみたり。

やっぱ定期的に書いてないと、駄目なんだなって思った深夜3時。

*

今年の2月からフルリモートになったこともあって、この3週間は一歩も外から出なかった。好きなものだけを集めて、限りなく居心地を良くした根城に、まるでヤドカリのように殻に閉じ籠もる日々。

特に心境に変化があった訳でもなくて、ただ家から出る理由を見つけれないまま惰性に過ごしていると、振り返れば3週間という時間が流れてた。

コープのオンラインやUbereatsで食事を済ませ、ベッド脇に転がったリモコンを手にすれば、Netflixが好きな映画や海外ドラマの世界に導いてくれる。友人や家族とだってLINE やZOOMでいつでも顔を見合わせたかのように話せる現状。技術やツールが便利になればなるほど、外界との接触を、人と触れ合う機会を、こんなにもいとも簡単に遮断出来るんだって、この3週間で身に沁みて分かった気がする。

もし、ずっとこのままだったら。

そう思うとちょっと怖くなって、3週間ぶりに外へと繰り出してみることにした。

自然とドアノブに添えた手にも力が入ったのも束の間、差し込んだ陽の光と新鮮な空気で一気に開放感が身体を駆け巡って、一瞬で身体の力が抜ける。

一歩外に出れば、頭上には限りなく透き通った青色が広がってて。

普段は写真なんてあまり取らないのに、思わず携帯を空へと向ける自分がいた。

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久しぶりに浴びた陽の光は、視界がくらむほどに眩しくて、でも心地よくて、時折頬に触れる風が澄んだ空気と共に甘い香りを引き連れてくる。

私の住んでる家の辺りは10分も歩けば大きな駅に出て飲食店や娯楽施設が立ち並ぶ。必然的に人も集まり、いつも生活音や人の声でがやがやとしてる。

だから、せっかく外に出たなら出来るだけ人のいない自然がある方にと思い、とぼとぼと歩き続けた。

距離でいえば、電車で二駅分程。

民家の立ち並ぶ道沿いを歩き、小さな路地を見つけたら極力そちらを選び、街から離れるようにと、路地から路地へ。

少しずつ静けさが漂い、道が開けたことでようやく目的地の小さな公園まで辿り着く。

ベンチがひとつと、ブランコがふたつしかないほんとに小さな何もない場所。

前来た時は、綺麗な桜が咲いてた。

なのに、今は葉桜が風にそよがれ葉波をうつ景色だけが視界に広がった。

当然だけど5月に入り桜が咲いてるはずもなく、散った直後に目にするピンク色に染まる絨毯のようなものもなく、ただ新緑の緑が枝から芽吹いてるだけ。

何を期待していたんだろうと、思った。

春がきて、夏が終わって、秋がきて、冬が終わって。日本にいれば当然の移ろいでいく日々が、ずっと家の中にいたせいで、自分だけが時を止められていたかのような感覚。

たぶんあと10年も経たない内に、家の中にいようとどこにいようと、自分の映し出したい景色を壁や窓に投影し、陽の光や香りすらも本物のように感じとれるようになるんだろうと思う。

だから、今日みたいに季節に置き去りにされたと思うことも無くなる。

さながら映画のような世界を現実はいつも追いかけていて、そこに到達してみればあっという間に日常に溶け込む。だからそんな世界もすぐそこまできてるんだと思う。

人との繋がりも減って、現実は現実としての価値を少しずつ失っていくのかもしれない。

それは、なんだか寂しい。


この記事を書くまで、今日は撮った写真をずっと見返してた。

夜が降る中、携帯に指を滑らせて捲る写真はどれも綺麗で、今日は外に出て良かったという気持ちが心の中に芽吹く。

特に葉桜から溢れた陽射しに手のひらをかざした写真は一番のお気に入りになった。

いつか、季節に置き去りにされない未来がきたとしても。

たとえ、季節に置き去りにされても。

春のひかりを、夏のあおさを、秋の彩りを、冬の切なさを、目の前に広がる現実の景色を、ずっと綺麗だと思える自分でいたい。

そう思った。


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