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マダガスカル180日目

午前中に高校で2クラスの指導を実施しました。
午後から用事があるので時間割を少し変更していただいてなんとか今日のクラスに体育の機会を提供する事ができました。少しでも運動、スポーツに触れる機会を提供することが僕のボランティア活動の意義でもあります。

ルールや決まりごとは、それらの存在理由を認識して守っていたわけではない事に気づきました。
それらを破ることで発生する自分への害が大きいので仕方なく守っていたのかも知れません。例えば、授業中に他の人の勉強の邪魔をしてはいけません。この様なルールがあった場合に、授業を担当する先生によってルール違反の発生回数は変わります。簡単に言うと先生が怖いと回数は減ります。

ルールと罰則がセットで存在している意味がわかった気がします。
決まり事も、ルールも、秩序も一定の罰則がその効果を保証している場面がたくさんあると言うことです。
恐怖による支配と考えることもできますかね。
この様な事が続くと決まり事やルールの本質を見る事が難しくなります。その結果、自分で考えることもできなくなり、応用が効かなくなるので全てのことにゼロから10までなぜルールを守るのか、破ってはいけないのかを説明しなくてはならない状況に陥ります。実にめんどくさく、時間の無駄と思ってしまいます。

では僕の実施する体育ではどうでしょうか?
準備運動をぜずに好きなスポーツだけする生徒、体育中に他のクラスの体育に参加して邪魔をする。
流石にマダガスカルでも授業中に他人の邪魔をしてはならないことは先生が教えているはずです。例に出した事が現実に起きています。
この現状を踏まえて、生徒のせいにする事は簡単であるが、根本的な問題解決に至らないこと知っています。

きっとこの様なことは昔から起きていて、その度に先生が厳しく怒っていたのでしょうか、子供たちは、怒られたくないからやらない。この様な理由で間違っている解釈を起こします。そしてこれは繰り返されていきます。
僕は怒らないと知っているのでこれらの行為が多発します。

決まり事、ルールが存在している目的や本来の理由を知る事が必要だと思います。次回は体育の最低限のルール共有と、その目的を伝えるところから、スタートしようかなと思いました。

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