かわいいの呪縛と向き合う話。

闘病日記番外編(というか最近は調子がいいので特に書くことがない)


わたしは女の子に生まれた。自分の意思とはもちろん関係はないまま。

小さい頃からずっとかわらないことがある。

それは、定期的に男の子っぽくなるときと女の子っぽくなるときがあることだ。


ピンクとかフリフリとか、俗にいう、"女の子らしいもの"。

小さい頃はそれがすごく好きだったし、心の底から可愛いと思っていた。

それを好きなことが普通だったから、何も信じて疑わなかった。

だけど、小学生くらいから、可愛いものを好む時期とかっこいいものを好む時期を交互に繰り返すようになった。

たとえば一年生の時は、リボンとかフリルとか、可愛らしいものをたくさん身につけていたのに、

二年生になるとそういった服を一切着なくなり、逆に"いかに周りにかっこよくみられるか"を考えて行動するようになった。

そうやって交互にくりかえしながら生きていった。


転機は高校を辞めたあと。


在学中は周りの目もあって、髪は長くして、大して興味もないメイクをしたり、可愛く見える仕草をしなくちゃダメだったり。

でも、辞めてから、ちょうど男の子っぽくなりたい時期がきて、髪を生まれて初めてショートカットにした。

いまより太っていて、顔も丸々としていたのにショートカットにしていたから、あまりいいものではなかったけれど、自分の中ではとても気に入っていたし、満足した。

そのとき初めて、自分らしく生きることを考え始めたかもしれない。

元々個性とか我は強かったけれど、その自分は本来の自分だけで構成されていたわけではなく、多分、親の影響も大きかったんだと思う。

人から何かを言われる心配も無くなったから、決断も早かった。


髪を切って、服装を変えて。


そんな中で、高校を辞めてから初めて恋をした。


相手は、同性。


わたしは自分が同性を好きになることに驚きを隠せなかった。

まさか自分が。

でも、それと同時に、恋をする幸せを味わって。


わたしの幸せ、みんなの幸せと同じように誰かに話したっていいじゃない?


そう思って周りの友人にカミングアウトした。


運良く友人に恵まれていたから、誰も否定しなかったし、ニコニコ話を聞いてくれた。

そこからセクシャリティについて調べていくうちに、ある言葉にたどり着く。


"Xジェンダー"


不定性というものが存在するらしい。

そこで初めて腑に落ちた。

昔から、可愛いものを好むことが善だとされてきたから、あまりかっこいいものを好きだと言えず、身につけることもできなかった。

働き始めて、自分のお金でカッコよくなっていく姿を見た母に、

"可愛い服もたくさん着たらいいのに"

と言われたこともある。


かわいいは呪いだ。

かわいいという言葉ひとつで喜ぶ人もいるし、悲しむ人もいるし、

わたしはかっこいい姿の自分も可愛い姿の自分も好きだけれど、その時によってかっこいいと言われたいかかわいいと言われたいかが違う。

でも、かわいいを強制する必要なんて誰にもないし、されていいわけない。

逆も然り。


かっこいい、かわいい、女らしい、男らしい、男の子なんだから、女の子なんだから、


その言葉って本当に必要なのかな。

多様性の時代だからこそ、人にかける言葉にも慎重にならなくちゃいけない。

大変だと感じるかもしれないけど、でも、言葉って本来そういうもの。

SNSの普及などで言葉を軽いものとして扱うようになってしまって、人を簡単に傷つけるようになってしまった。

言葉って、そんな簡単なものじゃない。

多様性の時代、それならば、言葉を大切にして、少しでもたくさんの個性を尊重して生きていけたらな、

そう願うのみです。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?