主観と独善的美しさ

人生とは主観である。
美しさとは全て独善的である。

いきなり何言うてんねんこのおっさん。イキるな。
と思ったそこのあなた、本当にすいません。
いや、よく考えたら俺謝らんでええわ。ボケが、しばくぞ。
最近仕事をして家帰ってボーッとすることしかしていないのでせめてもの抵抗として書き留めさせて頂く。

人生、というとかなり大雑把でこの言葉が適切であるかは分からないが、生きることは主観である。もう少し噛み砕いて言うと、自分の感じたものが世界なのだ。

最近、友達が自殺したりなんかまあ色々あったがやはり、「生きる」という命題は人間が知性を持って生まれた以上、避けることのできないものなんだと思う。そして、この情報社会の中で何らかの生き辛さを感じている人はごまんといる。俺は自ら命を絶つような真似はしないが、そんな選択をしてしまう人も一定数存在する。ここで俺が言いたいのは「自殺はダメですよ」的な臭い啓発ではなく(むしろ俺は自殺容認派である)、世界の美しさを観ることができているのかというおそらくnoteで1番気持ち悪いおっさんの独り言である。

自殺容認派と書くとなんだか勘違いされそうなので先に弁明はしておくが、『死にたい奴は死なせておけ』的なスタンスではなく、『本当に自分の人生その選択が幸せであると確信持って言えるのであれば、それは他人がとやかく言うことではない』といったスタンスである。自殺という選択がその人にとって心から救われると感じるのであれば他人からの言葉は全てその人それぞれのエゴに過ぎない。

哲学的ゾンビの話をするわけではないが、やはり自分の人生は主観でしかない。その時の感情がどんな外部からの刺激によってもたらされたものだとしても、その感情は自分のものである。その感情に行き着くまでの経路はその人の経験だったり視点だったり様々な要因で変わる。
最近常日頃から考えているのだが、真の意味で客観という言葉は存在しないのだと思う。世の中一般的に言う客観視するというのは、つまるところ、複数人の主観をもって、統計学上共通項の多い認識を客観と呼んでいるに過ぎない。例えば、殺人について、教育によって大多数の認識は『悪いこと』になっているので、客観的に言えば『悪いこと』になり得る。しかし、殺人が受けいられている国では客観的に『悪いこと』にはならない。あくまで客観という言葉はそのコミュニティに属する人間の主観を寄せ集めて作った、共通項を便宜的に客観と呼んでいるだけである。
今見ている景色、感情は全て己の世界である。人に何かの考えを説くときは、前提知識として主観という考えを持った上で説くことができる人間でありたい。
そして美しさとは、幸せという言葉で言い換えてもいいかもしれない。山と海どちらが美しいと思うのか、インドア派かアウトドア派か、全ては自分の独善的な主観である。家族で過ごすのが幸せと思う人もいれば、快楽殺人者にとっては殺人こそが幸せになる。そういった美しさ、幸せというものを勝手に定義して、当てはめようとしてくる奴らは爆散すればいいのにと思う。
会社員をやっていて、或いは音楽をやっていて、そういう主観の押し付けがましい奴はいっぱい見てきたが、そういう人間ほど中身のないうっすい人間である。
願わくば、俺の見る世界はもっと美しさに満ちた、素晴らしき世界であることを祈っている。

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